■デイリーインプレッション:バックナンバー 2000/03/21~2000/03/31
2000年03月[ /21日 /22日 /23日 /24日 /27日 /28日 /29日 /30日 /31日 ]

2000年03月21日(火)

今、下の娘が卒業旅行とやらで中国に行っている。

大学院の修士課程の卒業なので、2年前の欧州卒業旅行より質素にしたらしい。予算を聞くと確かに切りつめている。万里の長城へも、日本人のツアーでなく現地のツアーにするつもりだと言っていた。中国語もできぬのに、と内心危ぶんだのであるが、あえて異議を唱えなかった。何事も経験に如くはない。私は一時中国に入れ揚げて、中国語会話の学習とともに、何回かかの地を訪れた。そして私なりの中国観を形成することができた。しかしながら、はっきりとした理由は分からぬが、それをピークに中国熱も醒めてしまったのだ。恋人だと思っていたのに、よく付合ってみたら本当はそこに愛がなかった、というような感じである。中国に対して大変失礼なことをしたと反省している。

下の娘は学生の間にほぼめぼしい国を歩いてしまった。豪華旅行でもなく、ヒッチハイクでもない格安のツアーを上手に利用したと思う。旅行会社の商品も実に多様で整備されているものと感心する。日本から海外に観光客を送り出す、いうならば日本人からお金をとる旅行ビジネスは実に成熟している。この逆の、海外観光客の日本への取り込みが業界の課題ということらしい。これが旅行業界のグロバリゼーションということか。

下の娘はアルバイトもほどほどにしていた。家庭教師や塾の口がコンスタントにかかったのは幸運であった。大学院時代は育英会の奨学金も支給されたので、我が家の家計もずいぶん助かったのである。さらに自宅から通学できるコストメリットも見逃せない。アルバイトの稼ぎの一部でも家に入れてくれれば、孝行娘として、亡き母の遺影のわきにスナップ写真を飾ってもよかったが、そうしたお金は海外旅行にまわったのである。

下の娘は、ろくに本も読まず、日本語のボキャブラリーが不足である。理系であるから少しは論理的思考ができるとは思うが、レトリックに難があるのはこれから問題だ。大学院の質も低下したものだと思うのは私ひとりだけではあるまい。こんな娘を雇ってくれる会社もあるのだから、ありがたいと思うと同時に同情もしてしまう。

いずれにしても、やっと学生から足を洗ってくれる娘に、妻も私も安堵と少しの寂しさを感じているのである。もう、これが最後だよ!と複雑な思い込めてそれぞれ小遣いを娘に手渡したのである。中国への旅は娘の独立への旅なのだ。再見!再見!


2000年03月22日(水)

卒業式のシーズンである。

卒業式は人生において、何らかの過程を通りすぎたという確認と、新たな出発の決意の場でもあろう。過去に生きられない人間は、何時だって先の見えない暗い道を歩かねばならない。卒業式のような、人生の道標の確認作業は、かくして賑やかにみんなで確かめ合うイベントとなる。そうした観点から、転勤や、引越しなども卒業と同質のものだろうと思う。だからそうしたものも宴会がつきものだ。

私の職場の社員が、子供の卒業式に出るから仕事の予定を変えたいと言ってきた。
ちょうど私が関わっている開発商品の現場試験を彼が担当していたのだ。今日明日と急ぐ実験でもなかったので、延期はさしたる問題ではない。
年齢のせいか、彼が半休をとりたいとした子供の卒業式出席に少し違和感を感ずる。彼には休みをとる理由としてそれは、正当かつ妥当の最たるものとの観があった。

もちろん、育児休暇が男性に認められるご時世である。しかも休みをとるのに理由などとくに必要もあるまい。労働者の権利なのだ。私とて労働協約や就業規則(当零細企業ではこうしたものは有名無実であるが)を無視できるほど図太い経営者ではない。
ただ、私の若い頃とだいぶ違うなと感じただけなのである。そして私のその違和感は間違いなく捨て去らねばならぬものだと戒めるのだ。彼が出席する卒業式には、そうして休暇をとった父親たちが数多くいるに違いない。それが当たり前だと疑いもしない父母で溢れているのだろう。それが今の時代なのだ。

公私の混同を避けるという時の「公」ほど分からなくなった時代はない。私の時代は「職」を「公」と同義としていたように思う。民間に働くものは公務員ほど公の概念が明確ではないから、仕事に公共性を見出していたのかもしれない。公私を分けるのが良しとした我々は、個人商店やオーナー会社に有り勝ちな個人と会社の混同を嫌ったのである。したがってよほどの理由がなければ私事を理由に「公務」を休めなかった。あの「ぽっぽや」の高倉健の世界である。

実は私は、下の娘の大学の入学式を、会社にも家族にも隠してそっと見に行ったことがある。娘の力では難関とされたその大学に入学できた嬉しさの、まさに親ばかの愚行?だった。それが娘を二人持ちながら、たった一度の親としての子供の道標の確認だった。
職場の彼の、胸を張っての卒業式出席宣言はいい時代の証しには違いない。


2000年03月23日(木)

先日見たNHKテレビの特集番組はショックだった。
ある都立高校の卒業生120人のうち、半分がまともな就職ができず、アルバイトかフリーターになるらしい。この120人の卒業生も少ないと思ったら、半分が退学した結果だという。大学や専門学校へは40人ほど進学するのだそうだ。
背景にはもちろんこの不景気がある。高卒の職場がますます狭まっている。

生徒の職業に対する願望や期待がますます増大し、満足への要求水準は高くなっている。それに反して供給される美味しいパイは小さくなるばかりだ。結局、職場がないというというより、やりたい仕事がないという双方のミスマッチの問題なのだ。米国に比べると若者がぜいたくで、ないものねだりの結果、日本の失業率を上げているという識者の辛らつな指摘もある。働こうとすればいくらでも仕事があるのに、ただえり好みをしているのが日本の若者だというのだ。

番組によると、どうも辛らつな指摘通りで、職業の選択の自由を満喫し、とりあえずフリーターでもしていようということのようだ。悲壮感はあまりない。そのうち本当に自分のやりたいものが見つかるだろう、と気楽だ。
こうしたモラトリアム思想は、親が裕福になったから可能になったのだろう。親への依存が彼らの基本姿勢だ。自分の使うお金ぐらいならアルバイトで稼げば足りるという考え方だ。いい会社に入ったところで将来が保証されるわけではないし、という皮相的な意見がその根拠の後押しをする。

私は昔から怠けて生きたいと思い続けてきた。働き者は尊敬するけれど、自分の怠惰を改める気持ちは少しもなかった。親の家計にゆとりがなかったから、フリーターとなる甘えも許されなかったし、寂しかったから所帯をもって、その結果不本意ながら、家族を養うために働き続けなければならなかった。今だって気持ちだけなら根無し草のフリーターそのものだ。
仕事にしても、長年同じことをやっていると、好きも嫌いもなくなって頭と体が自然に動くようになる。キャリアなどそんな尊いものでなく、惰性とマンネリをただ磨き上げたものに過ぎず、あまり価値があるものとは言えない。その証拠に自分がいつ辞めてもいくらでも替わりがいるのである。

正社員にあると言われる会社に対する忠誠心も最近は怪しくなった。正社員がだんだんフリーター近づくのかそれともフリーターが正社員に近づくのか、自由と保障のバランスが若者の心の中で揺れている。

番組はもうここまで来ている若者の職業観を余すところなく伝えていた。そして私はこれをどう判断をしていいのだろうか、とただうなって観ているばかりであった。我々世代はこうした時代にただ混乱しているだけのような気がするが?


2000年03月24日(金)

私の勤務する会社の社長のMが糖尿病の初期と診断されたようだ。

落ち込んでいる彼に、私は、もうそういう年なのだから諦めなさいよ!と慰めとも揶揄ともつかぬ言葉をかけたのである。そして、内心、このタフな男も私同様成人病患者にやっと仲間入りかとほくそえんだのである。ひとの不幸は心地よく、のたとえ通り、幸せなところにいた者が、自分と同じ哀れな境遇に落ちてくることを快感とするのは悲しいかな人間の性だ。嫉妬と怨嗟でできている人間社会は、ひとの喜びをわが歓びとする偽善を標榜にしなければ成り立たない。その標榜は年老いてこの世のすべてが空しいものと知ったとき初めて自分のものになるのだろうが。

会社を四人で15年前に創業したとき、我々は若さに溢れていた。一番年長の私も、続けて徹夜ができるほど若かったのである。ゴルフを絶って社業の安定に必死に走り回った4人は、それでも有り余るエネルギーを毎夜の討論に向けたのであった。若くなければ起業なぞできぬとつくづく思う。

経営に、塀の外に落ちぬほどの小康を得てからもう長い。成長しているときは熱気も持続するのであるが、生存のみが目的の内向きな営みは、人をしまり屋にするが、マンネリが怠惰にもする。そして成人病が本格化するのである。

最初に私が痛風を宣告された。続いてそれぞれ高脂血症、脂肪肝と診断されたのだ。Mだけが残っていたのである。だから、このたびの糖尿病診断はめでたいと言えば言えなくもない。創業メンバー4人そろっての成人(病)宣言となったのだから。会社の経営状況がまさに成人病にかかったようで少し気色が悪い。

これからの四人の話題は、誰が先にあの世にいくか?となった。順序からすれば私である。常々その旨公言しているのであるが、憎まれっ子のたとえを引用して、誰もそれを信じようとしない。もちろん私だって、先に死んでたまるかと考えているのである。これだけは、先頭ごめん、というのが人情というものだろう。

零細企業ながらも社業の存続を考えるとき、我々の引退の方が、死よりも先になろう。定年もはっきりしない小社では私が率先して道筋をつけるしかない。

開発だけの私の人生に最後のターゲットが見えてきた気がする。

Mよ!好きな肉は控えめに、そして夜の飲食は避けるべきだ!


2000年03月27日(月)

毎年使っているビジネス手帳が、このところだいぶ溜まった。捨て去るには自分の日々が詰まり過ぎている。それでもこんな小さな手帳に収まるほどのちっぽけな営みだ。メモの間に俳句とも川柳ともつかぬ定型句がある。懐かしいな!

四十路越え名前覚えし紅かなめ  小さい庭付きの家が持てて、植えた木だった。

逝く友の顔重なるや庭つつじ   親友の死に庭で号泣したっけ。

伊豆の海想いて染めし家庭風呂  家族旅行、その思い出は真っ青な海。

夢抱きて暑き国から娘出発つ   真夏、娘は米国留学に旅立った。

2年前娘も行きし蛍狩り     娘が去ってそして時間のたつのは早いもの。

開襟に老いの身露わ旧き友   昔颯爽としていた友の首筋は無残!

朝採りし瓜をと見送る父と母  帰郷はいつも父母に寂しさを残してくるのかも。

ツッパリし男消え去り永田町   そう言えば橋本内閣もあっけなかったな。

あれもまた天の園かもブッチャート 下の娘とカナダを訪ねたときの花の庭園だ。

径のはた死への誘いか彼岸花  病気で苦悶の日もあった。今は笑えるが。

知足とは吾が坪庭の秋にあり  小さな庭の木々にも紅葉が、虫の声もある........。

夏去ぬ日まさかの声は旧き女  初恋だったのよ、の電話告白は何だったのか?

凡人を強調して成りし宰相は   本当に小渕さんは凡人なのか?

この辺で駄句の開陳を遠慮しないとルール違反となろう。誰も他人の平凡な営みなど興味はあるまい。

人間が未来に希望が持てるのは、過去が美化できるからだと私は思う。どんな辛い体験も苦労も振り返ってみれば、それは大方は肯定できる過去だ。それを生きたという満足感に満たされるものだ。こうしたサクセスストーリーをもって、人は明日に向かうのではないだろうか。人が死ぬとき諦観の極に達するのであろうが、自分が十分に生きたという啓示がどこからかあるのではないだろうか?

ところで、おまけに一句追加したい。「父帰る」ではないが、年老いた男が恋と仕事の冒険旅行に疲れ果てたらどこに帰るのだろうか?私の答えは照れくさいがこうだ!

現在(いま)恋は長途の末に旧き妻

ここまで読まれた方、本当にご苦労さまでした。


2000年03月28日(火)

若い知り合いの経営者が、本業が駄目だからウォタービジネスでも始めたい、と言った。
これからは環境ビジネスだものね、と相づちを打ったら、笑われてしまった。水商売のことだそうだ。なるほど、直訳すれば確かにそうだ。若いひとはこういう言い方をするのだろうか?それはともかく、今は本業に邁進するのがいいのでは、とお父さんの代から続く家業を惜しんで、私は無責任に言葉を返したのである。どんな商売でも新しく始めることは容易ではあるまい。

そんな話を聞いた夕方、1年ぶりに、昔通った上野の中国人クラブ(パブ)から電話がかかってきた。十年前ぐらい本当によく通ったクラブである。5年前ほどから足が遠のき、時折の美人ママの電話攻勢に、ごくたまに訪ねる程度が暫く続いた。
まったく行かなくなって2年たつが、それでも1年くらいはママもよく誘いの電話をよこした。そして音沙汰がなくなって一年たつ。

行かなくなった理由は3つある。最大理由は金がなくなったことだ。バブルの頃は会社の経費として時折落としもしたが、自分の金で遊ぶという男の美学を大事にしたければ、当然身銭を切らねばならない。さらに領収書を貰わない男意気がないと女性にはもてないのである。残る二つの理由は、家を引っ越して通うには遠くなったこと、そして毎回同じ繰り返しに飽いたからである。
この店の看板は中国美人を揃えていることで、まあ無理をしてひいき眼にみれば、まずは看板通りの店ではあったろう。期待に胸をときめかした紳士達が毎夜集まったのである。自他ともに認める恐妻家であり、道徳家の私は、博愛とプラトニックの精神から逸脱することなく、堅く男の貞操!は守り通したのである。

金払いもよく慈愛に溢れしかも助平でない紳士は、容貌姿態に関係なくもてるのがこの世界だ。かくして私はこの店の女性全員の熱き思いを一身に受けることとなったのである。(と思っている)さらに真摯な中国語会話学習の取組みがそれに拍車をかけた。
ホステスである中国女性の、アパート入居の保証から前金の立替、買い物手伝いから役所等の届け出、悩みの解決など、頼まれ、引き受けるのは自然の成り行きだった。それはボランティアと寄付行為がミックスしたものだ。

今度の電話はママではなくて、ママの妹からのものだ。商売でしこたま金を貯めこんだ姉が中国に帰り、あとを妹が引き受けたという。あの頃、妹の顔は見知っていたが、まだ人馴れしない硬い顔つきだった。
姉同様にお願いします、と誘われて、ハイハイと答えてはみたが、もう多分この店を訪れることはあるまいと思う。なぜなら、男の美学を貫く原資すなわちマネーのへそくりが底をついているからだ。それに体力気力もない。心身、持ち物ともにシケているのがいまの私である。こんな中(老)年男誰が相手してくれよう。


2000年03月29日(水)

スペイン人がやってきた。

遠い国からはるばるやってきた彼は若くてハンサムだ。会社の若い娘も胸をときめかしているようだし、私もなんとなく気持ちが躍っている。

彼は写真を持参できた。私がスペインに行き、軽い気持ちで契約にサインしたときの記念写真だ。玄関前でにこやかに握手をしている。彼のイエスキリストのような崇高な顔立ち?と、間が抜けたような日本人の顔が対照的だ。

この調印が地元の新聞に出たのだという。まさか写真まで載ったわけではないだろうが、地元の優良企業がハイテクの国に進出、というような内容だったらしい。
当社が日本では取るに足らない吹けば飛ぶよな零細企業であることは関係はないようだ。日本に輸出をすることがニュースになることなのである。

そんな期待を背負ってか、かのスペイン人は張り切っている。持ってきた大きなカバンには重いサンプルがいっぱい詰め込まれていた。訛の強い英語をまくし立てる元気な彼に圧倒される毎日である。

応ずる社員は目を白黒させたり、うーんと唸りつつも何とか英語をひねくり出して意思を通じさせている。それを見て英語の単語を貸してあげようかとも考えるが、ためにならないとそれを飲み込む私だ。私も同様に疲れる時間を過ごしている。

隠し事をせず全部見せて、話して、そして一緒に日本市場を開発しようという方針に決めた。それが一番近道だと思うことにした。考え方に彼我の差があろうが、それを明らかにすることに意義がある。少し青いかなとも思うが。

私のコンピューターを自分の物のように使いこなし、インターネットで世界と受発信をするその若きビジネスマンは有能だ。南米のスペイン語圏はほとんど進出したという。この地域のスペインパワーは強いのだそうだ。日本は英語圏だそうで、その先頭に我々が選ばれたのか?選んだ?のか。けだし光栄ということだろう。今までは気楽な気持ちも幾分あったが、今回の彼の来日はそんな気分をたしなめる無言の圧力になっている。仕事に真摯な態度は、どこの国の人でも気持ちがいいものだ。しかし国際化?の道は遠い。


2000年03月30日(木)

下の娘が家を出る準備で忙しい。

31日に神奈川県のアパートに引っ越すことになっているらしい。妻と二人で日程を立て、こまごまと準備を進めている。新たに買い入れる電気製品や家具類も父親のアドバイスなど一切必要としないようだ。別にムクれているわけではない。
無視されのは馴れているのである。また相談に乗れるほどの知識や才覚もないのだ。若い娘の嗜好など知るはずがない。

子は親と離れて暮らすことによって親を知るという。そういう経験を与えることは、親からみれば、最後は得をすることになるだろう。親のことを考えてくれる子がいることは喜び以外何物でもない。所詮、親とはわがままなものではないか。

私は18歳で家を出た。東京の大学に入るために故郷を離れたのである。兄や姉が次々と家を出て、すぐ上の兄と末っ子の私が残っていた。その兄はすでに職を得ており、最後の私だけが母の楽しみの対象であったろう。父はもう他界していた。
私はただ、東京に行ける喜びに心も体も躍っていた。
母が私のためにこまごまとした物を買い揃え、母の弟が机や本箱など大きな物を荒縄で荷造りしてくれたのを覚えている。それらは新しいものをそろえてほしいと思ったが、口に出せるほど豊かな家計ではなかった。荷物は考えていたよりずっと多く、人の生活にはなんと多くのものが要ることか、と感じたものだ。

母は、血のつながらない兄や姉を育て、世に送り出した。それはまさに格闘の日々だったように思う。実の子の、すぐ上の兄も手のかかる不登校児で、これまたすさまじい日々続いた。私にしても、高校時代には喫煙や喧嘩で、母は先生から呼び出しを受けたのである。
そんな私が何かの間違いで大学に合格してしまった!
旅立ちの日、母の目には涙があった。喜びと満足感と寂しさだったのだろうか。

子を世に旅立たせる親の気持ちは複雑なものだ。言葉でなんか言えない。
31日、金曜日は運良く!私は仕事だ。そして飲み会がある。娘の見送りなんかできないのだ!


2000年03月31日(金)

来社中のスペイン人がマスクにびっくりしたようだ。

いま花粉症が真っ盛りでマスクをしている人も多い。効果があるのかないのか分からないが、何かしら役立っているのだろう。鼻水が垂れるのを隠すにはよさそうだ。私のまわりでも多くの人が苦しんでいる。

そのスペインの人は、はじめは医療関係者がいやに多いなと思ったそうだ。それにしては多すぎておかしいなと感じて、私に質したわけである。

私の妻は重症の花粉症患者である。毎年発症前に予防薬を欠かさない。それでも本番はひどいことになるので、飲み薬から目薬、鼻薬まで大量投与となる。私の痛風薬などかわいいものだ。多分ホルモンがおかしくなるような成分がいっぱい入っているアブない薬もあろう。
夜がまた眠れないらしい。鼻が詰まるから呼吸が苦しくなる。そして口でするから咽喉が痛くなるという寸法だ。いびきだってすごいものだ。そんな悪環境の中で私は寝なければならない。しかし私は昔から妻の小言と雑言には馴れているから忍耐はできるのである。片耳を枕に押し付け、もう一方はラジオのレシーバーを突っ込めば音は半減する。

鼻をひっきりなしにかむから、ティッシュの山である。昔は新聞紙でかんだ時代もあったが、今はぜいたくだ。それでも妻の鼻の周りはカサついている。目のまわりも痒いらしく、ひんぱんにかくからここもカサついている。始終赤い目をして、さらに顔全体にむくみがあるのである。要するにひどい顔である。

鼻が効かないから料理の味がわからない。その結果、ときどき塩辛いのや無味乾燥なおかずを食べる羽目になるのである。文句を言うと、こんな状態の妻は機嫌の良いはずもなく、10倍くらいどやされる結果となる。黙っておいしくいただくのが、か弱い夫の知恵をいうものだ。

私は文明人なのか野蛮人なのか、痛風で鍛えた免疫のせいなのか、花粉症の気はないのである。妻はどこからか知識を仕入れてきて、回虫など寄生虫がこの病に関係していると説教をたれた。そして、不潔な私が体のどこかにそうした虫を飼っているのでは、と主張するのである。私はすかさず、「苦虫かな!」と洒落たのであるが、妻は「弱虫よ!」と応えたのである。その通りです!はい。
来社中のスペイン人がマスクにびっくりしたようだ。

いま花粉症が真っ盛りでマスクをしている人も多い。効果があるのかないのか分からないが、何かしら役立っているのだろう。鼻水が垂れるのを隠すにはよさそうだ。私のまわりでも多くの人が苦しんでいる。

そのスペインの人は、はじめは医療関係者がいやに多いなと思ったそうだ。それにしては多すぎておかしいなと感じて、私に質したわけである。

私の妻は重症の花粉症患者である。毎年発症前に予防薬を欠かさない。それでも本番はひどいことになるので、飲み薬から目薬、鼻薬まで大量投与となる。私の痛風薬などかわいいものだ。多分ホルモンがおかしくなるような成分がいっぱい入っているアブない薬もあろう。
夜がまた眠れないらしい。鼻が詰まるから呼吸が苦しくなる。そして口でするから咽喉が痛くなるという寸法だ。いびきだってすごいものだ。そんな悪環境の中で私は寝なければならない。しかし私は昔から妻の小言と雑言には馴れているから忍耐はできるのである。片耳を枕に押し付け、もう一方はラジオのレシーバーを突っ込めば音は半減する。

鼻をひっきりなしにかむから、ティッシュの山である。昔は新聞紙でかんだ時代もあったが、今はぜいたくだ。それでも妻の鼻の周りはカサついている。目のまわりも痒いらしく、ひんぱんにかくからここもカサついている。始終赤い目をして、さらに顔全体にむくみがあるのである。要するにひどい顔である。

鼻が効かないから料理の味がわからない。その結果、ときどき塩辛いのや無味乾燥なおかずを食べる羽目になるのである。文句を言うと、こんな状態の妻は機嫌の良いはずもなく、10倍くらいどやされる結果となる。黙っておいしくいただくのが、か弱い夫の知恵をいうものだ。

私は文明人なのか野蛮人なのか、痛風で鍛えた免疫のせいなのか、花粉症の気はないのである。妻はどこからか知識を仕入れてきて、回虫など寄生虫がこの病に関係していると説教をたれた。そして、不潔な私が体のどこかにそうした虫を飼っているのでは、と主張するのである。私はすかさず、「苦虫かな!」と洒落たのであるが、妻は「弱虫よ!」と応えたのである。その通りです!はい。


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