毎年使っているビジネス手帳が、このところだいぶ溜まった。捨て去るには自分の日々が詰まり過ぎている。それでもこんな小さな手帳に収まるほどのちっぽけな営みだ。メモの間に俳句とも川柳ともつかぬ定型句がある。懐かしいな!
四十路越え名前覚えし紅かなめ 小さい庭付きの家が持てて、植えた木だった。
逝く友の顔重なるや庭つつじ 親友の死に庭で号泣したっけ。
伊豆の海想いて染めし家庭風呂 家族旅行、その思い出は真っ青な海。
夢抱きて暑き国から娘出発つ 真夏、娘は米国留学に旅立った。
2年前娘も行きし蛍狩り 娘が去ってそして時間のたつのは早いもの。
開襟に老いの身露わ旧き友 昔颯爽としていた友の首筋は無残!
朝採りし瓜をと見送る父と母 帰郷はいつも父母に寂しさを残してくるのかも。
ツッパリし男消え去り永田町 そう言えば橋本内閣もあっけなかったな。
あれもまた天の園かもブッチャート 下の娘とカナダを訪ねたときの花の庭園だ。
径のはた死への誘いか彼岸花 病気で苦悶の日もあった。今は笑えるが。
知足とは吾が坪庭の秋にあり 小さな庭の木々にも紅葉が、虫の声もある........。
夏去ぬ日まさかの声は旧き女 初恋だったのよ、の電話告白は何だったのか?
凡人を強調して成りし宰相は 本当に小渕さんは凡人なのか?
この辺で駄句の開陳を遠慮しないとルール違反となろう。誰も他人の平凡な営みなど興味はあるまい。
人間が未来に希望が持てるのは、過去が美化できるからだと私は思う。どんな辛い体験も苦労も振り返ってみれば、それは大方は肯定できる過去だ。それを生きたという満足感に満たされるものだ。こうしたサクセスストーリーをもって、人は明日に向かうのではないだろうか。人が死ぬとき諦観の極に達するのであろうが、自分が十分に生きたという啓示がどこからかあるのではないだろうか?
ところで、おまけに一句追加したい。「父帰る」ではないが、年老いた男が恋と仕事の冒険旅行に疲れ果てたらどこに帰るのだろうか?私の答えは照れくさいがこうだ!
現在(いま)恋は長途の末に旧き妻
ここまで読まれた方、本当にご苦労さまでした。
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