時々リーダーシップとは何か、と考えることがある。
これは私にそれが皆無なのでは、という懐疑的の思いが頻繁によぎるからである。
一国の首相のように、国民のリーダーと称すべき立場から、小さくは家庭での主導権や友人間の仕切り役までこの言葉の汎用性は高い。だが政治家や市民運動家のように他人を扇情する巧拙にリーダーシップを当てはめる場合は特別だ。国民の人気を得る資質は別の才能であろう。石原東京都知事のやり方を一部政治家の言う、ポピュラリズムの逆手利用、としてアンフェアと取るか、卓越したリーダーシップの発揮と見るか、意見の分かれるところだろう。偉大な政治家は、大衆におもねることなく、自分の理想を貫くこともあった。いつの時代も国民の判断が正しいということでもない。そして、そもそも国民とは一枚岩ではない。
企業におけるリーダーシップとは、自分の部下に対するものがほとんどだ。会社の外部に対するものはあまり意味がない。ちゃんと役職が機能していれば、相手は納得する。部下が上司をないがしろにして外部を説得できることは少ない。
リーダーシップは役職に付帯するものである。課長が全社的な方針の決定に関与はしても、その執行を全面的に指揮するわけではない。こうして見ると、いったいリーダーシップとは何ぞという命題に行きつく。役職の権限は業務規定や服務規定で決められるし、方針は予算や実施計画で固められるのである。いくら組織がフラットになったり、課長がプロジェクトリーダーと代わったところで、責任者のする管理義務は変わらないのである。リーダーシップとはこの管理業務を期待通り、過不足なくやる能力ということであり、それ以上ではないはずだ。
給与に成果給を取り入れるなら、業務が会社からのお仕着せではなく、自分で自由に選べなければフェアでない、という議論がある。ソニーなどの社内応募制の根拠でもある。確かに、自分の好きな仕事であれば良い結果も出せよう。
社内応募制の結果、人気のない上司の下に人が集まらない結果となるらしい。そうすると、リーダーシップと人気が同義となってしまう。すなわち会社ポピュラリズムである。上司の石原慎太郎が出現する可能性がある。
「あなたと仕事がしたい」というのが、上司に対する殺し文句だ。この言葉を言わせるために、石原慎太郎になれない上司は、胃を痛めつつ、無理をして部下のご機嫌取りに精を出すのだ。会社でのリーダーシップとは、実は部下へのごますりに他ならない。孤高の道を行くクールな上司は映画の中にしかいないのだ。かくして見かけ上、面倒見の良い親切な上司が溢れるのである。打算的な部下に勝つには、その上をいく打算でしか上司は対抗できない。
「あなたと仕事がしたい」という、15年前、私と今の会社を創業したN君やM君の殺し文句が今も効いている。私は常に彼らの期待に脅迫され、彼らにゴマを擦リ続けてきた。私のリーダーシップ意識とは、かくもプレッシャーの要因なのである。そして、その任、器にあらずとお役ご免をひたすら待つのである。
PS.「ずっといじめられてきた」というN君、M君の反論があることも、念のため申し添えます。
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