■デイリーインプレッション:バックナンバー 2000/06/12~2000/06/20
2000年06月[ /12日 /13日 /14日 /15日 /16日 /19日 /20日 ]

2000年06月12日(月)

梅雨の季節である。まわりの草花や庭木の生気を見ると、まさに彼らにとっては慈雨の季節なのであろう。湿気が多いの、カビが生えるのだの不都合ばかり並び立てるのは文明に毒された人間の勝手な理屈だ、と彼らは言っている。

最近私は植物と会話ができるようになったのである。周囲の人々が偏屈さを理由に私から離れつつあるので彼らを友とするしかないのだ。彼らの名もほとんど知らぬし、知ろうとも思わない。人間の名前と同じように、分類するための都合でつけた名前など何の意味があろうか。あやめと水仙とかきつばたに何の違いがあろう。この点異なる思想をもつ妻は、私のいい加減さを糾弾するのだ。宗教やイデオロギーの異なる人を説得するのは難しい。ごまかしのモナリザの微笑をアホの代名詞と引き換えにつくるのが私の処世術というヤツだ。

私の家から歩いて10分ほどのところに都立公園がある。偉大なとッチャン歌手北島さぶチャンの家の近くだ。この公園がまた実にいい。タダの雑木林なのだ。

谷間の雑木林をそのまま残し、そこに歩道をつけただけのものである。解説に昔の野山をそのまま味わえるとある。雑木を薪とした村人の暮らしを偲ぶかのごとく、ときどき木を刈るのである。聞こえるのは小鳥のさえずりばかり。と言いたいところだが、近くを通る高速道路の走行音が耳障りなのは残念だ。

このいかにも昔そのままという自然さが実は自然ではない。ゴミひとつ落ちていないし、防腐木材で作られた歩道の修理が頻繁であったり、季節によって広場のベンチが移動したりしているのを見ると、かなり意図的に操作をしているなと感じるのである。つまりかなりの金をつぎ込んでいるのだ。

創られた野山の自然に私は抱かれ、つかの間の安らぎを得る。今の日本に手を加えてない自然などあろうはずはなく、その点このミニ野山は実に巧妙にできていて、安直人間の私にはまさにうってつけの楽天地だ。ただし木々に名札がついているのはいただけない。子供の教育のためかもしれないが、暗記教育の一片としか思えない。用語の記憶蓄積量の多さが幸せな生活を保証した時代は終わったことは、石原知事はよくご存知のはずだが。

春夏秋冬の表情を見にこの公園を訪れる。名を知らぬ雑木の表情は人間の喜怒哀楽に似て多感だ。そして私は彼らに語りかけるのである。否、私の心や遺伝子に話しかけているのだろう。そして人間ばかりではなく動物や植物まで仏性があるとした先人の深い思索に安直に感動するのである。哲学の本でも読もうかな、と発心し、すっかり哲人めいた顔つきで家に帰るのであるが、俗人の権化のような妻を見たとたん、「ビール!」ということになり、座禅どころかゴロリとよこになり、米国製アクションムービーに現を抜かすのである。

小人閑居して不善を為す、か?
ところで今日は梅雨の話のはずだったが!


2000年06月13日(火)

脳梗塞で倒れた兄のこれからが決まったようだ。
小渕さんのようにあっさりとこの世を去るほど兄は人生に淡白ではなかった。
医者が義姉に、今後このまま行くでしょう、と何とも複雑な思いを抱かせる診断をくれたようである。

半分ボケてカラダも不自由で、ときおり徘徊発作?を起こす70歳の老人に健常者の考える幸せな生活はない。ベッドと折り合いをつけた諦観の別世界なのではないだろうか。いずれにしても、こればかりは当事者になってみないと分からないが。被介護老人となった兄を哀れと思うと同時に、この世から肉親を失わずに済んだ僥倖を思う。私はあまりのも多くの人々を失い過ぎている。

義姉もまた交通事故でカラダがまともではない。言動の方は障害を感じさせた以前ほどではないがまだテンポが常人より遅れる。兄の近くに住む私の腹違いの姉が、一緒にお兄さんと介護病院にはいったら?と勧めたぐらいだ。

兄は現在の病院を出て老人介護専門の病院に移るのだという。今は空きがないのでしばらく待機だ。現在の病院がそれまであずかってくれるというのはありがたい。一緒に入院をという病院側のさそいを断って義姉は、毎日送り迎えのバスで介護病院まで通い一日を過ごすという。兄を見舞うというより自分の時間を過ごすためだ。言うならば通いで受ける介護だ。

兄夫婦に男の子と妹の二人の子がいる。男はいわゆるデキの悪い子で、大学も中退、子供までなして離婚、仕事は長続きはしないという教育者の息子らしからぬ(先生という偽善職からして当然とも言えるが)所業ばかりだ。現在は同居していて得体の知れない仕事についている。それでも時々は見舞いにくるようで、兄も義姉も言い方は正反対だがかわいいらしい。兄はやつはダメだと言うのが口癖だ。義姉のことばに息子批判はない。

もう一人、妹は結婚して子供が一人。私の対する口のきき方もまともでそれなりに育った。しかし義姉にはあたりがきつく感じられるようだ。義姉が教員をしていて養育を他人まかせにしてきたので、親娘とも愛情が薄いのですとその娘は述懐した。海外出張が多い夫の留守は、子育てと親の見舞いに時間を費やしている。

兄のいない家を出て一緒に暮らそうという申し出を、義姉はろくに考えもしないで拒絶した。娘がそれを哀しがっていたと、腹違いの姉がその後の電話で知らせてきた。二人の心の糸は解いてみなければ分からないだろうが、家族の新旧交代時におけるやるせない心理劇だ。

何もかもから開放されてボケてしまった兄の心が憂鬱なのか、夢想の中に生きて楽しいのだろうかその心をのぞいてみたいものだ。すねたような兄の人生の最後はたとえベッドの上の想念だけの世界でも、それが明るい日々であってほしいものだ。


2000年06月14日(水)

学生時代に所属していた運動部の話題で盛り上がるときがある。青春の一時期を共有した仲間の思い出や、若い肉体を極限まで痛めつけたあとの爽快感がよみがえったりするのであろう。

私はそうした場にいていつも落ち着かない思いをもつ。そうした話に同調できる自身の経験がないのである。言うならば汗と友情のスポーツ青春がないのだ。

確かに、野球、陸上、バスケット、柔道など中学から高校にかけ所属したクラブはある。ただし最長1年、短いもので1週間というごく短期間だけのものだ。それゆえ、友と競い合ったクラブ活動、などという甘い懐かしい思い出も湧いてくるわけはない。

高校時代軟式テニスに熱中し、国体出場を果たしたことが唯一自慢の妻からすれば、あんたには青春がないのよ!ということになる。もっぱらアタマの運動をしていたとの反論は、肉体賛美派の妻にはおかどちがいのいいわけとなる。

私が続かなかった理由は、運動神経の悪さより協調性のなさにしておきたいのであるが、今となってはどちらでもよい。運動神経のよさが自慢になるのは若い内だけだから。年を取っての偉丈夫やスポーツマンは本人が思うほど周りはカッコのいいものとはしない。年よりは......らしくするのが一番であると信じる。

一昨日突然M氏から電話をもらった。会社創業時に仕事のことで数回会って以来だからほぼ14年ぶりだ。彼がその日仕事で会った人物が私の古い友人で、たまたま私の話が出たのでつい懐かしく、とのことだった。3人の子供のうち長男はもう社会人ですよ、と昔と変わらない声で近況を話してくれた。そう言えば彼は私より3つばかり下のはずだ。

20年ほど前、先輩友人7,8人で起こした彼の会社が当たった。現在の年商は180億ほどになるという。海外へも進出を果たし現地法人も何社かを数える盛況ぶりだ。店頭に上場すべく時期をうかがっているという。彼は営業を総括し専務という肩書きらしい。IT銘柄ではないが、計測機器のメーカーだからその近辺にはいると言えるだろう。日本の最大手のセメントメーカーが20%を出資している,と言ったら知っている人もいるかも知れない。

彼とはテニス仲間だ。学生時代部活になじめなかった私のクラブ活動は30歳過ぎて実現した。そのころ住んでいた地域のソフトテニスクラブの5年間がそれだ。
残念ながら私の卒業ならぬ住居移転でそれが終わることになる。この団体活動は、30歳を過ぎて多少他人との付き合い方を覚えた顕著な成果だった。

彼は今に至るまでテニスを続け、市や県の大会にも出場し続けているという。あのころから抜群の運動神経と体力の持ち主だった。彼を見ると、ビジネスの成功はスポーツ能力に比例しているのでは?という仮説が出てくるのだ。その仮説が正しければ私のかかわるビジネスの結果はおよそが知れよう。

一度会いましょうよ、という彼の声はまったく屈託がない。スポーツマンは私にはまぶしい。


2000年06月15日(木)

MBOという現経営者による企業の買い取りが話題となっている。言うならば分社とのれん分けが合体したようなものだ。切り離す方から見れば効率の言いリストラで、買い取るサラリーマン経営者からすればオーナーへのステップアップである。

MBOのやり方を知ったのはもう20年以上も前だ。私は当時、勤務先の米国企業が一事業部門を切り離してつくった合弁企業に飛ばされクサっていた。100%米国資本である本体に残りたかったが、おかしなことに合弁に行きたいと言っていた部長が残った。彼が合弁の相手先に嫌われたのが裏の理由だが、おかげで私が割を食った。

私をその米国企業に採用したS氏は、大学で土質工学を専攻した陽気なアメリカンだった。私の上司でいたのはほんの1年間ほどで、その頃はニューヨークに帰り、事業部の太平洋地域全体をみていた。私の合弁会社行きをだいぶ反対してくれたが、人がいないとの日本側の反論には仕方なかったようだ。

そのころ、独立志向の彼はMBOによる自立を考えていた。自分の知識が通用する建設化学の分野を狙っていたが、どうもいま勤める会社のラインにはないという判断だ。そこで気に入った会社を探し出し、それを会社に買い取らせリストラさせ、その後、会社に対しMBOの提案しようということのようだ。言うならば会社を利用した自作自演の買収劇だ。会社には損をさせるわけではない、と私の懐疑的な疑問を不思議がる彼だった。もう目星をつけた会社もあり、弁護士や会計士もチームに加えたと言う。このMBOが成功したら、私に日本の支社長をやれと言う。
TOB(会社買収)で伸びてきたその米国企業で働く管理職のドライさを見て、米国社会では、およそ日本のビジネス常識が通用しないものだとつくづく知ったのである。

彼がニューヨークに帰るとき、一緒に来いと言ってくれた。米国の大学を出たり、MBAを取って入社した後輩に後れをとりつつあった私への配慮である。米国でのビジネス経験が語学や資格のハンディを埋めるだろうと彼は強調した。
決めていた私の冒険を白紙に戻したのは妻の反対である。行くなら一人で行って!とにべも無い。今考えると惜しいチャンスを逃した。

彼に刺激をされたわけではないが、合弁会社に在職中、パートナーシップで4つの会社をつくり、一つの会社を買収した。そして会社を追われるとき、一つの会社をもMBOできなかった。そのころのビジネス風土は現在とだいぶ違っていたということだろう。

さて肝心のS氏によるMBOはどうなったのだろうか?
MBOの成功を確信する手紙を毎年くれた彼が、なぜか7年前からプツリと音信が不通になった。手紙を出しても、電話をしても彼をつかまえられない。
昨年春米国に行ったとき、業界ショーでたまたまその会社のコーナーを見つけた。
若い社員何人かに彼の行方をあたってみたが、一様にそんな昔の人は知りません、ということだった。その会社も当時と較べたらずいぶん図体が小さくなっていた。

一つの時代が過ぎた今、S氏は私の会いたい人の筆頭である。


2000年06月16日(金)

最近の若年層のむごたらしい犯罪の連発に辟易していたら、こんどは中年男が宝石店の女性店員6人を焼き殺すという戦慄する事件が起きた。犯罪の少ない国とか、安全都市とかいう誇大な看板は下ろした方がよさそうだ。経済も落ち目なら、社会規範も低レベルだ。政治はもともと三流だから落ちようがない。

最近の十代の犯罪の増加を、ある精神科医(遠山高史氏)は二つの理由を挙げて解き明かしている。なるほどと思ったのでここに紹介したい。

「十七歳前後の普通に生活している少年たちの会話を横で聞いてみよう。彼らはきわめてしばしば、殺すという言葉を使っている。
 そもそも殺意とは誰でも想念の中で日常的にいだいているものである。
 しかし、実際にそれを行うためには一つの心理的壁を超えねばならない。昔は貧しさや争いが、その壁を超えさせた。むろん、病も理性の壁を崩し衝動の突出による殺人をまねくが、かっては、精神病者や、病的な心理にもとづく犯罪は多く家庭の中にとどまっていた。それが世に向かうようになってきたのである。その理由はさまざまだが、ここでは二点のべておこう。
 一つは家庭の力が弱くなったことである。たとえば弱々しい母が一人息子にふりまわされ、外へ攻撃が向かうのを阻止できないというようなことも起こる。
 もう一つは、メディアが彼らの攻撃性をバーチャルな世界で実現してみせることで現実世界との境界を取りはらってしまったことによる。彼らは弱々しい家族の中で強者であり得、バーチャルな世界で英雄となり、自分を追い詰めた社会にリベンジするのである。」 (月刊誌「選択」6月号)

我々は普通の家庭の真面目な少年が突如暴走することにとまどう。精神に何らかの病理性があるせいなのか、それとも得体の知れない何かが少年の頭の中ではしけるのだろうか。私は慄然とする以外確たる言もない。

余談であるが、私は遠山氏のこのコラムの熱烈なファンである。氏の鮮やかな論法と格調の高い文章に触れるとき、こうした駄文を書いている私がたまらなく嫌になる。そして早くこのコラムをやめねばと考えるのだ。

ノーベル賞科学者江崎玲於奈氏の文章もたまらなく好きであることをついでに告白したい。それがどうした!と言われれば一言もないが。
今日は体調が悪いので手を抜きました。悪しからず。


2000年06月19日(月)

梅雨のさなか先週は、わが家は台風のごとくであった。先先週末アメリカから上の娘が帰ってきたのがきっかけで、日本に住んでいる米国娘の友だちやら、娘の米国でのアルバイト先の友人のいとこやらがわが家にやって来たのである。

とくに、そのいとこなる娘は18歳の学生で、気楽な夏休みステイとやらでわが家に二泊もしたのである。アパートの一人暮らしを始めた下の娘も、本社に会議があるとか、飲み会があるとかで週末家に戻ってきたのが重なってにぎやかなことになった。

上の娘は、米国ではみなそうだから、あまりかまわないで自由にさせて、と妻にアドバイスらしき物言いだ、異国の人に一宿のもてなしを担当する妻はそう簡単にはいかない。何が食べられるの?何時ごろ朝食?夜寒くない?どこに連れて行くの?など、上の娘が飽きれるほどの干渉だ。小さな家に異文化人の突然の来訪だから、仕切りやの妻ならずともなんだか落着かない。上の娘が通訳に飽いた時、私は妻の口と耳になるのだから気持ちも一体となる。

18歳の娘はまったくマイペースで、朝はゆっくり起き、食事は嫌いなものは嫌いといい(それでもほとんどの料理は食べたが)、眠くなったから寝ると言って部屋に引きこもった。陶芸に興味があると言い、15年以上下手のなんとかで作陶だけは続けている妻は、共通の話題に一時を過ごすことができた。妻は以後彼女が好きになったそうだから、妻の人間判断は単純だ。

その娘も去り、下の娘も自分の城に帰っていき、そして上の娘もアメリカに発った。父の日、日曜日の夕食は静かだが寂しいものだ。台風一過ね、と妻がつぶやいた。

上の娘はもう滞米5年を数え米語会話もスムーズにこなすようになった。会話の内容が評価される域になったと言えるだろう。彼女はさらに勉強したいと意欲を燃やす。もういいかげんに日本に帰ってこいという妻と、好きなだけやればいいさという私は、この点に関し不毛の論争を続けている。これは決して交わることのない平行線だ。

父の日の前日が私の誕生日だった。誕生日のプレゼントを忘れた?上の娘は、日曜日家を去る時、米国製の父の日カードを私にそっとよこした。
それは多少うそっぽい調子ではあったが、父の目を潤ませるほどにはアピールしたことを告白しなければなるまい。

父を泣かすに刃物は要らぬ感謝の言葉があればいい、と言うではないか。え!知らない?

台風一過、こころ曇天なり。されどときどき晴れ>


2000年06月20日(火)

明日21日は夏至である。言うまでもないが昼間が一番長い日だ。テレビの気象番組によると、日の出から日没までおよそ14時間35分であるそうな。その日だけ突出して長いのかと思ったら、今週は毎日ほぼ同じ昼間時間だそうだ。天体の動きは雄大でゆっくりした動きなのだろう。宇宙から見れば、人間の生きるスピードは籠の中のねずみのチョコチョコした走りか、地面の蟻のあわただしい動きに喩えられるのではないか。最近、生きていくテンポがだいぶ早くなっていると感じるのは私だけだろうか?昔の人の50年の生涯を80年で生きるとすればもっとゆっくり歩いていてもいいはずだが。

久しぶりに月明かりで道を歩いた。先週末、18歳のアメリカンギャルが私の家に泊まったとき、妻が彼女にホタルを見せたいと言い出した。彼女は見たことがないと言う。暗くてもいいか?と聞いたら、カリフォルニアの田舎に住んでいるから慣れていると言う。そこでひとつしかない懐中電灯を持って私と妻の三人で出かけることにした。

近くの都立公園の奥で毎年ホタルを見ることができる。年によって多い少ないがあるようだが知る人ぞ知る穴場だ。私はここに来るのはちょうど3年ぶりだ。
公園は雑木林で灯りひとつない。女性だけではとうてい来ることができない暗黒の世界だ。妻は最初から私のシャツをつかんではなさない。

アメリカンギャルは暗さを気にする風もない。それどころか明るいではないかと言う。たしかによくよく見るとぼんやり明るいようだ。木立が一本一本見える。
おかしいなと思い空を見上げたら、満月に近いような大きな月が目に入った。そうだ月光だったのだ。「値千金」の歌どおりの月夜だ。

こんなに月明かりが明るかったとは、と妻と二人感動してしまった。人工の光ばかりの生活で忘れていたやさしい光だ。まさに宇宙からの慈愛だろう。

結局、ホタルはいなかった。徒労に終わった深夜のミニトレッキングにギャルは落胆の様子だった。日本の神秘?ひとつ見損なったわけだから。日本滞在の本拠地である飯田市にもどって再度ホタル狩りにトライする、と言ってギャルは部屋に戻っていった。私と妻は彼女に見せてやれなかった悔しさもあったが、久しぶりに味わった自然光の抱擁に大いに満足であった。


前のページへ目次のページへ次のページへ