■浮遊児のコラム「月と太陽の旅」
第2回 『スローな進化論』

 春は一斉に野の花達が芽吹き、小鳥や虫達が踊り出す。『さあのんびりピクニックやハイキングでも』といった感じ。家の鉢植えにあった野草(名前は知らない)も黄色い花を咲かせている。
 そういえば去年、私が教えている専門学校の生徒が家に遊びに来た時に、お土産に持ってきてくれた野草の種だったのだ。
 『そうか1年経つのは早いものだなあ』としみじみと感じる。
 ピンと背をのばして、真直ぐ太陽を浴びている花たちを見て癒される。

 そんな折、久々に『ダーウィンを越えて』(今西錦司著)を読んでみた。
 ダーウィンについては教科書などでよく御存じであると思う。
 ダーウィンは進化が生じるレベルは『個体』ととらえ、今西進化論は進化の生じるレベルは個体よりも『種』だと訴えた。そして、生物学者である今西氏は『学問は人から学ぶものではなく、自然から習うもの』といった人である。
 生物が同じ場所で生きていく為には、競争することを避けて、それぞれの住む場所を『住みわけ』しながらその環境に適合するために外部形態を進化させてきたといわれている。
 ダーウィンの進化論は『弱肉強食』であるのに対して、真っ向から反論している今西理論は『共生、共存の論理』である。
 これは、生態学的考え方ではないだろうか?この部分に私は共感を覚えるのだ。

 かれこれ3、4年前、私にはトレッキングを兼ねてクワガタ虫採集が趣味の時期があった。
 しかも採集する季節は10月から2月である。とにかく暇さえあれば、森の中を歩き回り、風の音をたよりに朽ち木を探した。なぜなら風が通る通り沿いの木にしか、クワガタはいないからだ。
 これは彼等が子孫を残す為に、風通しの良い場所を選んでいるからだといわれている。
 うっそうとした森の中では、木が腐ってしまうか、適度な水分をとれないために、卵を産まないのだろうと思う。虫たちは、環境の善し悪しを本能的に判断できるのだろう。
 ブナ、ナラ、クヌギといった朽ち木をみつけては、そっと表皮を剥がし、卵を産みつけたポイントを探し(木肌がやや黒くなっている)中にいるクワガタの幼虫を持ち帰る。
 家に帰ると、小さな薬ビンにプロテインで自然乾燥させた木屑(水分を含ませたもの)を詰め込んで彼等の家を造る。
 仕事で疲れて帰ってくると、夜な夜なビンの中の幼虫たちをまるで我が子のように眺めては、癒されたものである。彼等が成長している過程を眺めていると、まるで時間がゆっくりと流れる宇宙空間にいるような気がした。(ちょっとマニアックである)
 ちょうど今頃(5月ぐらい)になると、彼等はお互い示し合わせたように一斉に蛹になり、やがて成虫へと変化していくのだ。
 ところが、成虫になると木屑は食べない。昆虫用のゼリーをホームセンターで買ってきて分け与える。
 しかし、50本もビンがあると餌代がかかるので、彼等をふるさとの森にかえしに行くのである。
 森に還すという行為を考えるとまるで自分が良いことをしているようだが、虫達にとってはたまったものではない。勝手に家を奪われ、新しい家を与えられて、飽きたらまた森に帰れと逃がされる。
 相手が、虫であれ今思えば人さらいならぬ、虫さらいだ。
 言うまでもないが、それ以降クワガタ採取にはいかなくなった。

『スロ−イズビュ−ティフル −Slow is beautiful−』

人間の生み出した科学は日々便利さを生み出す
しかし自然を忘れた人には時に自然の痛みが分からなくなる
垂れ流しだけの産業に終止符を打つように、
ちょっと休んでみようかなあ
毎日ゆっくりと空を眺める時間が5分でもあれば
絶えず色を変えて流れてゆく雲や
一度として同じ色でない空の青さも
われわれを楽しませてくれるのに
もっとわれわれは風の音に耳を澄まし
大地の草木に心を配り
のんびりと地球が回る速さで
物事を考えてみれば
自然の恵みと共に生きるヒントをみつけられるのかも
そうスローダウンしてみて
そう気分はスローイズビューティフル

 『空を見る余裕はないよ』という声が聞こえてきそうだが、余裕がない時には思考回路が片寄った判断をしているのではないかと、ときどき思う。
 『争う為に生きていく』そういう世の中なのではなく、『共存するために何ができるのかな』と考えるようになれば、ものの見方、価値観が変わるのかも知れない。
 そう地球は人間にゆっくりと考え、生きることを求めているような気がするのだ。

浮遊児


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