■浮遊児のコラム「月と太陽の旅」
第3回 『引き算の美学』

 雨が多くなってきた。もうすぐ梅雨がやってくるが、なんだかじめじめとしている様子。ちょっと前に、りそな銀行の経営破たんに国の税金を投入するというニュースがあり国民一人当りの投資額は2万円だそうだ。
 経済を中心に物事をとらえているとなんだかつらくなってくる。

 政治学者ダグラスラミスという人がいる。『世界がもし100人の村だったら』という本の対訳をしていることで知ったのだが、彼の言葉を借りれば、我々の社会で進歩といえば必ずといっていいほど足し算のことであり、引き算とはかならず後退のことだと信じられているらしい。
 その典型を例にあげるとすればGDPの成長にみられる経済の『無限成長』があげられる。株価同様、国の経済指標、見通しにわれわれは一喜一憂しているのである。
 我々の信じている科学、技術、経済における進歩が、地球環境における生態系に深刻な打撃をもたらし、その結果我々人類そのものの生命が脅かされていることはいろいろな議論がなされているので御存じのことと思う。
 『進歩』という一見ポジティブな活動の結果、我々は果たして本当に豊かになり幸せになったのだろうか?
 テクノロジーの進歩にますます依存し、従属するようになった結果、人間の本来の能力は萎縮しきってしまい、人間同士の関係や自然との関わりも窮屈になってきて、悪い意味での『なまけもの』になっているのではないか?
 生活に節約という引き算をブレンドすると、一般的に経済成長という足し算に慣れ切ってる人には、後退するという感じがするのかもしれない。自分がこれまで依存してきたモノを少しずつ減らしていって、それがなくても平気な人間になる。例えば、週に一度は通勤を車から電車や自転車に変えるとか、シャワーの回数を減らしてお風呂の残り湯を洗濯や花の水やりに使うとか、昼食には割り箸を減らして(あるいは買い物をしてももらわない)自分の箸を携帯するなどといったことが、結果的に地球にやさしいことに連ながるのでは。
 そして人間の能力の代わりになるテクノロジーを減らして、人間の能力を伸ばすような道具を増やす。
 ユニバ−サルデザイン的な発想がとても重要になってくる。本来の意味における文化(自前で生きていることを楽しむ能力)を取り戻すことで生きる為のエネルギーがわき起こってくるのではないかと思う。

 先日友人宅で餃子パーティーを開いた。
 彼の家は蛍光灯がなく、照明らしきものもほとんどないので、ロ−ソクに火を灯し、音楽を聞きながらゆったりとした時間を過ごした。薄明かりのなかでゆっくりと手作りの餃子の皮をこねながらワイワイと談笑しつつ水餃子にして食べた。みんなで食べるとなぜかおいしい。
 日頃の仕事のストレスもどこかに吸い込んでくれるようだ。
 炎を見つめていると、なぜか時間を忘れてとてもプリミティブな気持ちになってくる。
 高級料理屋に行くのもそれは素敵で有り難いことだが、ときにはコストをかけない食事も、空間創りと食材がよければ満足できるものである。
 最近、耳にするようになった「スローフード」。
 スローフードとは、15年前にイタリアで提唱された、“ファーストフードに慣れ親しんだ現代社会を、食から見直そう”という考え方である。

 引き算という美学について、ラミスに言わせれば、それは人間にとって本来の快楽や豊かさをめざす、積極的で前向きな考え方だ。「効率」の名のもとに切り捨ててきた人と人との、人と自然との関係を取り戻す。時間をどんどん換金するようなこれまでの生き方を極力減らして、金を減らしてでもゆったりとした人間らしい時間を取り戻すことを提唱している。
 現代の経済原理というものは少し錆びてきているのかもしれない。錆を落とすためには、人間らしさの追求が必要であるようだ。

浮遊児


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