先日,妻が美智子妃の半生をまとめたテレビ番組を熱心に見ていた。ついつい私もつられて終いまで見てしまった。この種の番組は妻の年代の女性は好きだ。
番組中の、皇太子(現天皇)の米国女性家庭教師についての挿話はさわやかな感動があった。彼女は思春期の皇太子にさまざまな人間的影響を与えたようである。
侍従に依存しない自立心や、モノよりも人間に興味を持つよう示唆を与えたことなど興味深い。皇太子に、皇居と学習院の往き還り、国民の実際の生活の観察を義務付け、詳細に報告させたことなど驚きである。彼女は、皇太子が人間よりモノの方に興味がありそうなのが気になったという。
雲上人を国民に近づけるのに、このフィラデルフィア出身の未亡人クウェーカー教徒の一助があった。民間人である美智子妃との結婚や、手元で子供を育てられたことなど彼女の影響やアドバイスがあったようだ。
われわれの関心や興味の対象は人によってずいぶんと異なる。社会的動物である人間は、他者との関係維持のため最大努力を払うのが普通だ。そのための探求や工夫が人生の継続的課題となる。人に対する関心や興味はその原動力なのである。
温かく保護され、周りへの配慮にとりわけ気にする必要がないとき、人はその仕組みや背景への思いやりが希薄になる。上に立つものは、ぬくもりで眼鏡が曇らぬよう常に窓から顔を出しておくよう彼女はアドバイスしたのだろう。
私は、自身を神経質でデリケートな性格だと思っている。人間に興味と関心がありすぎるのだと分析している。そして他人の言動に過敏すぎると信じている。
これは、異母兄弟の存在や少年時代の父の病気による環境変化など、自分を取巻く仕組みが幾度か揺らいだからだと考えている。周りの大人達の目をうかがう小賢しい少年時代を過ごしたようで、思い出も苦いものが多い。
人間に関心なぞ持たず、草花や昆虫採集あるいは天体観測に熱中する人間になりたいとずっと思っていた。厚顔無恥、鉄面皮、傍若無人という言葉にあこがれを抱いていた。人から離れようと思えば思うほど対人関係を反省するジレンマに陥っていた。
皇太子に、人にもっと関心を、と言った家庭教師はバックボーンに宗教的理念があった。
人に関心がある私は、バックに確固な信念がない。
過敏神経を免疫療法で減感させるか、信念を宗教か鍛練で鋳込むしかないのか!
妻の声がどこからか聞こえる。「大丈夫よ、もうボケがはじまっているから!」
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