■デイリーインプレッション:バックナンバー 2000/04/03~2000/04/10
2000年04月[ /03日 /04日 /05日 /06日 /07日 /10日 ]

2000年04月03日(月)

年をとると頭が悪くなる。

まず記憶能力が落ちる。これは疑いのない事実だ。

先週の日曜日、都内に出かける用事があって朝家を出た。私の予定帰宅時間には妻が外出しているとのことで、家の鍵は必ず持って出てくれ、と言われていたのに、私はコロっと忘れた。駅からの帰宅途中に気がついて、妻の行き先に電話をして、そこの近くまで行くから持ち鍵を手渡してくれ、と恥を忍んで頼んだのだ。

私はその日もう一件用事があってまた家を出なければならない。モノをとりに戻ったのである。
電話は妻のいるところに近い公衆電話からした。出てきた妻は軽蔑したような顔で鍵をよこし、出かけるときは玄関前のプランターの下に上手に置いといて、と批判がましく言った。たまには忘れ物だってするさ、とムっとして答えるしかない。

家に帰って、友達に電話しようと電子手帳をさがしたら見当たらない。たしかあの公衆電話ではあったはずだが........?また忘れものである!急いで妻に電話をする。迷惑そうな声で出てきた妻は、公衆電話を見てきてくれ、という私の頼みにはさすがに声を荒げた。そちらからの方が近いから、という私の説得は暫しの時間を要したが、結局この合理的な理由が功を奏した。

「ありましたよ!」とぶっきらぼうな声を聞いて、気持ちは複雑であった。家に帰ったその夜は、妻からの軽蔑と罵倒を一言もなく聞かなければならない惨めな私が見えていたからだ。

その夜、案に相違して妻の言葉は少なく、咎める気配もない。
しめしめと思い、ゆっくり風呂に入り、そいて夕刊を読んでいると、妻は田舎の母に電話をしだした。「うちのだんなボケがひどくて参っているの、とにかく物忘れがひどくて、今日なんかサ.................」とやりだした。最後に、85歳になる父を引き合いに出し、「お父さんよりひどいと思うの、このままいったら5年後にはサ....................。」とボケ老人の看護をしている話しぶりだ。そりゃ医者にでも行ったらいいじゃないかい、と母は答えているようだ。ざけんな!

何かを考えていて、思考が横道にそれるときがある。暫しのあと再びもとの道に戻ったらそれまでのデータが消えていて何を考えていたのだっけ、と悩む経験をよくするようになった。格好良く言えば複合思考ができないのだ。脳細胞が読み出し機能すなわちCD−ROMの機能が大きく減退つつある。入力できるCD−Rの機能は、加齢によりこれはゼロに近くなっている。私自身に外付けのDVDドライバーが要るな、と考えてぼんやりしていたら、妻が「寝るときはコタツの電気は切るようにね」と指示を残し、寝室に入っていったのである。「まったく、私がしっかりしているからいいよなものの」とブツブツ言いながら。


2000年04月04日(火)
スペインからはるばるやってきた彼が帰った。
土日をはさんで1週間ほど滞在したことになる。小さなつむじ風のような出来事だった。こんな零細企業に異文化の襲来があったことは驚きだ。
会社の諸君は彼のさわやかさや親しみやすさが好きになったようだ。

彼はお土産に、自転車につけるチャイルドシートを買っていった。スペインには、後ろ座席につけるものはあっても、ハンドルに装着するタイプはないのだそうだ。
小さく畳める構造ではないので、そのままスーパーの袋にいれたまま無造作に担いでいった。子煩悩なパパそのものである。そして飾り気もない。

すし、刺身、てんぷら、うなぎ、おしんこと日本的なものはすべて食べることができた。箸もあざやかに使う。マドリッドの日本料理店で練習したのだそうだ。
魚類は彼らも日常食するので特に違和感はないらしい。生でも時には食べることがあるのだそうだ。うまいまずいは論外であろうが、とにかく日本人と同じに食べたのにはみな驚いた。こんな点もみんな好きになった理由かもしれない。

来た時と同じように、サンプルをいっぱい持って帰っていった。こんどはこちらから日本のサンプルである。社員の一人が、駅までお持ちします、と言って大きなバッグを持ち上げようとしてふんばり、顔を真っ赤にしたのはこっけいだった。それほど重くなっていたのだ。彼はニヤっと笑って自ら抱え、スタスタ歩きだしたのは大したパワーだ。
やわな身体では世界を股に駆けれまいと納得だ。

私に、気に入ってくれると嬉しいが、とスペイン焼きの奇妙なお面をみやげに持ってきた。
ガウディの国だけあって色もかたちも妙に可笑しい面だ。一目で気に入った。
家の居間の壁にそれを架けた。そしていまそれを見ながらこの駄文をワープロしている。
面の向こうにさわやかな彼の顔が笑っている。シーユーアゲイン!


2000年04月05日(水)

人の会話の仕方は二通りである。
もっぱら聞くほうに比重を置く型と、話す方に重きを置くタイプだ。

両者の力関係や立場、話の内容によって人は両方の立場をとれると思い勝ちだが、実はこれは個性のように人によってどちらかのタイプに分類されるのではないかと思う。あなたは聞き型、私は話し型というように。

これは内心が積極的であるとか、無口だとか、説得されやすいとかはあまり関係ないことのように思う。積極的だけれどあまり自分を語らない人もいるし、無口だけれど人の話も聞かず、自分の主張しかしない人もいる。自分が休まず話しているうちに相手に説得されてしまう例だってあるのである。

聞き型とか話し型の分類は、ひとの接し方の単なる性向に過ぎないのである。人間が生きるということは、人との接触を繰り返していくということなのだ。そして、いつも良好な接触を保つということは実に難しい。誰だって工夫と努力しなければ破綻に至る可能性はある。それだけ我々はわがままなのである。

潤滑油は会話だ。笑顔やボディランゲッジもあるが一時のものである。
会話は投げ手と受け手で成り立つ。漫才にもボケとつっこみがあり、両者に役割があるのだ。私の主張は、このパートが一生変わらないのが人間だということである。私は一生ボケで、あなたは生涯つっこみと言う感じだ。時と場合、相手と立場によってパートがくるくる変わると主張する人もいよう。しかしいったん身についた嗜好や性向の本質は容易に変わらないことも事実だ。

見かけはともかく、私は本質的な会話のスタンスは不動と信じ込んでいる。聞く人はいつも聞く人で、話す人はいつも話す人だ。見かけは聞く人でも、実は話を聞いていず、暗黙のうちに主張しているという見せかけ例は無数だ。

私は名実ともに!話し型である。人の話は聞いていない。私が相手の話を聞くときは、次の話の準備をし、理論構築するときだ。だから右の耳から入って左へ抜ける。私の妻は、私がしゃべっているときに、口を休め、私の話にけちをつけるために脳がフル回転しているのだ。そして悪口雑言が機関銃のように発射されるのである。結局私たち夫婦はお互い相手の話を聞いていない一方的関係ということになる。こうして二人は隣同士で、誰もいない彼方に向かって吼え、30年近く過ぎたのである。お互い話し手と聞き手を代わり番こに演じてきたのではなく、彼方に向かって話したことを、こだまで聞いてきたのかも知れない。こだまがデフォルメして心の声に変化し、自分のものになってやっと受け入れてきたのだ。

実は、冒頭の主張は、妻の聞く耳持たぬ一方的性格を非難する意図で引っ張り出したのであるが、私自身も然りである事実に愕然とし、最後はピンぼけとなった次第である。


2000年04月06日(木)

小渕さんの突然の病気はショックだ。

健康そうに見えたけれど、内実は糖尿病や動脈硬化や心臓病などの成人病患者だったという。62歳という年齢から考えると、この肉体破綻はいかにも早い。
スケジュールの過密さや、精神的な圧迫が限界を超えていたということであろう。

テレビで見る小渕さんはいつもニコニコで、精神的にも肉体的にも農夫のたくましさみたいなものがあって、図太い人だなと感じていたが、そうでもなかったのであろうか。ニュースを聞いたとき、瞬間、好事魔多しという言葉が浮かんだ。幸運な人と言われていたのに。

小渕さんの病気があって、私はS氏を思い出している。

彼もやはり突然の発病で、しかも無念のビジネス戦死を遂げた人物だ。肝臓ガンで小渕さんと同じ順天堂医院に入院していた。何回か見舞いに行ったことを思い出す。5月の連休前、娘さんから突然電話がかかってきた。父が危篤ですのですぐ来ていただけませんか、の言葉で急いで医院に駆けつけた。

S氏は力ない眼で私を見つめ、まだ死にたくはない、今度の総会の準備がまだできていない、と苦しそうに言った。氏はある中堅企業の社長を務めると同時に、ある業界団体の理事長の要職にもあった。団体の年次総会の心配をしているのだ。

結局それから2日後に氏は逝った。60歳であった。私はその死に目には会えなかったが、奥さんが私を身内として扱ってくれたおかげで、多くの人がくる前に氏との最後の時を持てた。それだけ私とS氏は一体だった。葬式は団体葬で盛大なものであり、私は親族の席に座ることになった。

S氏は私の大学の先輩であった。と同時にはじめて入った会社の先輩でもあった。
横柄な氏に入社早々私は腹を立て、職場が違うことをいいことに、3年間挨拶以外話もしなかった。そして、私が業務に精通するにつれて会話をするようになったのである。気がついたら学閥というナンセンスな輪の中で蠢いていたのである。

彼を出世させることが目的にもなった。過激な言動の私は彼の出世のためには毒にも薬にもなったのである。やがてそれに飽いて、私はその会社を去ることになる。引き止める彼を説得するのに半年を費やした。いずれ戻る、と空約束をしたのである。結局会社には戻らなかったが、仕事の種を提供し、内緒に業務の手伝いもしたのである。これを理由にその会社から感謝状を戴いた。
勤めていた外資系の会社でゴタゴタが続き悩んでいたとき、独立を相談に行ったら、今度は俺が面倒見るからもう辞めろ、と簡単に言った。彼はそのとき、順天堂医院に一回目の入院をしていた。

会社を設立して2ヶ月後S氏はあっけなく逝った。それでも以後2年間、その会社から顧問料として当社に一定金額が振り込まれつづけた。氏の最後の配慮であった。S氏が亡くなって15年経つ。そう言えば氏も農夫然としていた。


2000年04月07日(金)

久しぶりの友と酒を飲む。

彼との付き合いはもう20年は優に超える。仕事の付き合いが私的な友情に変わっている。私の20年の変遷を近くからも遠くからも彼は見てきた。
最初のころは商品の売り買いがある立場から、二人の間に多少の駆け引きもあったように思うが、後年、彼が他所の部署に移ってからは気楽な関係になった。

私たちが小さなビジネスを興したとき、変わらず取引の手を差し伸べてくれたことは大きな支えであった。もちろん損得も計算していたろうが、弱き者への援助の意味のほうが大きかったに違いない。そして何よりも我々を買ってくれたことが嬉しかった。

大手の化学会社に勤める彼に転勤はつき物だ。入社早々系列のエンジニアリング会社に出たことがあるそうだが、以後本社の営業部門に在籍することになる。50歳からは合弁会社と子会社とまた外を歩いている。今53歳の彼は、55歳になったら退職金をもらって子会社に転籍だろうな、と少し淋しげであった。

アグレッシブという言葉が彼のためにあるほどバイタリティ溢れる行動家であった。そのための摩擦がずいぶんあったように漏れ聞いたが、さもありなんと思う。
若いころ英会話習得のために、街で出会うすべての外国人に例外なく声をかけることを自分に課していたというから、心臓の方も相当なものである。その甲斐あって、外資との合弁も、現在の子会社での海外担当部長もそつなくこなしている。
要するに心身ともタフな彼なのである。

酒を飲む彼はいつもの彼のようではない。
いろいろあってさ、と彼は語り出した。仕事も転勤したばかりで大変そうだし、目先の定年も気がかりな様子だ。がしかしどうもそのせいではなさそうだ。

彼は私と同じで二人の娘さんがいる。上の娘さんはたしか今年大学を卒業のはずだ。優秀だと聞いている。下の娘さんもたしか有名私立大学のはずだ。
彼の話によると、上の娘さんが卒業と同時に結婚するのだそうだ。そしてもう暮らし始めてもいるらしい。相手は同じ大学の同期生で、いま入社企業の研修中であるとか。賛成じゃないけど女房が言うんでさ、と口調は重い。

下がいるじゃない、と言ったら、下の娘はずうっと結婚はしないと言うし、私の相手もしてくれるんだけど、うそっぽくてね。最近の女子大生って分からないのよね、と自信がない。
結局頼りになるのは女房しかいないのかな、が彼の結論だった。

鬢に白髪もちらほら、アグレッシブ一方だった彼にも老いの訪れがあるようだ。
同じように娘離れができない私は、この日少しの酒に悪酔いした。

オヤジふたり酒を飲む。半分さびしく半分しあわせな気持ちで。


2000年04月10日(月)

小渕さんの代わりに森さんが首相になった。

ラグビーで鍛えたとかで堂々たる体躯である。太めの肉体が筋肉が主であるなら、小渕さんのように成人病のいけにえになることもないだろう。

マスコミの評は、自分のポリシーがないとか調整タイプとかノミの心臓とか、あまり自己主張のない人のように言う。一方では失言家とか口がすべる人との噂もある。いずれにしてもマスコミの評価は当たらないとは言えないが、クルクル変わるからあまり信用はできない。

最近の警察キャリアの事件に端を発し、いわゆる官界エリートの処遇について問題が提起されている。大蔵官僚の20代税務署長の問題もこれだ。国会議員はそれこそ選良の最たる者だから、彼らの一挙一動は国民の最大関心事であるはずだ。

学業の成績をもって行政のエリートの切符を手に入れた者と、支持者を集め選挙という篩を経て立法のエリート切符を手に入れた者の間には、自ずから発想に違いがあると思われる。
がしかし、良い役人と良い政治家は目標も発想も手法も同じになるのではないかと思う。そうでなければ議員内閣制が成り立たないはずだ。大臣と事務次官が別の方向を向いていたら役所の仕事は成り立たないのである。そしてこれは、「良い」という形容詞がつくためには、施策があまねく公平であるという思想(妄想)が前提となる。

悪い役人と悪い政治家は、特定の人や団体の利益のために動くのである。そしてその目的をもって両者手を組むのである。
したがって、公平という尺度が、役人や政治家の良し悪しを分けるとも言える。
警察キャリアは県警を公平な目で見るため、あちこち、腰を据えずに!渡り歩くのである。簡単に言えばプロパーと親しくなりすぎたらノーということだ。

しかし、公平ほど振りかざしやすく、運用しにくいものはない。東京大学を出ても簡単にマスターできない難題なのだ。頭脳優秀ということは、論理的であり数理的な把握ができるということでもある。二つのうちどちらが大きいか、多くのものの中で何が重いのか理解できることである。こうした合理的判断が人間社会ではすべての人の解にはならないことがしばしばだ。決断の多くは役人答弁とか優柔不断という評価になるのがオチだ。それは公平を考えるからである。
我々個人もまた、すべてを代表する立場に立てない宿命がある。何らかの色がつき、グループに属しているのだ。マスコミとて「大衆」の定義がよく変わる。かくして公平を語れば語るほど怪しくなるジレンマに陥る。

さて、政治家や官僚のカリスマ性が剥げ落ちた現在、彼らはもう真のエリートではないのかも知れない。少しばかり成績が良くたってノーベル賞をとても貰えるほどじゃないことは誰だって知ってしまったからだ。
こういう人に頑張ってもらうには、けなすより少しばかりほめた方が有効だと昔から言われている。だから森新首相に対してもそういうことです。

今日は慣れない政治評論家!を演じてみました。


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