■浮遊児のコラム「月と太陽の旅」
第6回 『失われた五感』

 大変御無沙汰しているこのコラム。楽しみにして下さっている皆さん、久々の続編です。
 世間では梅雨シーズンの到来ですが、私がこの時期唯一残念な事は、うつくしい朝焼けとともに一日のスタートを過ごせないことです。早朝、日の出までの数分間ボーッと地球の夜明けを感じて、今日一日がんばるぞと、勇気が湧いてくる瞬間(いったい何時に起きているのでしょう?)

 さて前回の旅の続きから掘り起こしましょう。
 朝になると、石灰岩でできたその島のあちこちにある山々を目指して登山やハイキングをする目的で夜明け前から登山道は人が集まってくる。
 なにしろ島一周100キロしかないのだ。車では3時間、自転車で7時間、徒歩では24時間はかかる。
 乗り物がないとなかなか移動は大変である。リッチな人は、高級ホテルでの生活や、バスやタクシーでの観光という手もあるが、本当の島の良さまではわからないだろう。
 こういう不便なところでは、五感に頼らないと危険が伴うと思う。なにしろ自然は人々を楽しませてもくれるが、一歩判断をあやまれば恐怖とも背中合わせなのだから。
 自然の中では、不自由さの方が、生きている実感や充足感を与えてくれる気がするのは私だけであろうか?
 ふとアフリカのサバンナを旅した友人のことを思い出した。
 サバンナの夜はとても恐いそうだ。夜テントで寝ていると遠くで狼の遠ぼえはするし、いつ盗賊の侵入にあうのかわからないらしい。本当に明かりひとつない漆黒の闇。涙が出そうになり、身体の奥底から身震いがしたそうだ。
 『ここでの僕はなんてちっぽけな存在なのだろう、、、。』彼はそう言っていた。
 余談ではあるが私は島根県は出雲地方で生まれ、日本海に面した町に生まれ育ったが、子供の頃を思い出すと夜は外灯もまばらで、家の電気を消して外に出ると月明かりと遠く水平線に浮かんだイカ釣り漁船の火だけがこの世界を包み込み、落ち込んだ時などはあまりの静けさにひどく絶望的な気分になったことを記憶している。(もちろん星空をながめて夢と希望に胸踊らせたことも、、、)
 サバンナほどの闇夜というのは体験してはいないが、彼の気持ちは分かる気がする。
 今や24時間街明かりの中で生活していると、そのころの体験はなにか別世界のことのようにも思うし、都会からは遠い屋久島の夜を過ごしている時には、昔の景色とオーバーラップしてなにか懐かしさのような感情も沸き起こってくる。
 星空は目の前に感じ、耳をすませは風の音は甘い夢ををささやき、虫達は思い思いに自慢の音色を奏でる。
 この島にはまだ自然と不便さが残っている。そこがいいのだ。

 今や私のふるさとは、大きな道の駅はでき、高速道路が近くまで延びて、街のあちこちには都会と同じコンビニエンスストアやチェーン店が立ち並び、昔と様相が激変した。物質文明は、都市と地方の格差をなくすことで進化をとげているが、便利さのあまり人の意識の中から五感という感性を奪っているのではないかと思う。行政も企業も環境を排除するあまり、『建て前』だけはしっかりと構築し『本音』をどこかに忘れているのではないでしょうか?
 そういえば最近自動販売機の前で、お金を入れて商品が出ないのを理由に、販売機を蹴りイライラしている人を見かけた。つまり自分が思うようにならないとすぐきれるといった行為の事。
 こういうシーンを見かけると寂しい気持ちになってくる。
 もちろん、便利さを否定しているのではなく、よく考え選択する能力を人々が自然と使わなくなっている方向へ向かっている気がするのである。自然の中では誰かのせいになんてできない。すべては自分に帰ってくるから分かりやすいのだけれど。

 日常でももっと五感をフル稼動して、できれば誰かのせいにではなく、自分に責任を持って生きたいと思う今日この頃である。

浮遊児


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