■デイリーインプレッション:バックナンバー 2000/02/03~2000/02/10
2000年02月[ /03日 /04日 /07日 /08日 /09日 /10日 ]

2000年02月03日(木)

やはり年を取っての一人旅はきつい。もう二度としない、と家族と会社の友に宣言をした。今度のスペインへの旅で寿命が数年は縮まったと思う。
ラコルニャという都市が今回の旅の目的地であった。日本から出稼ぎ?に行っているサッカーの城選手が先日、3サポートの活躍でちらと新聞にもその名前が出ていたが、スペインの北の果ての街だ。4日ほど滞在し、明日城選手が来ると聞かされた日にそこを去った。
日本からスペインへの直行便はなく、ヨーロッパのどこかの都市を経由して行かねばならない。今回はアムステルダム経由とした。つなぎの宿のマドリッドのホテルで旅装を解いたとき、飛行機に老眼鏡を忘れたことに気づいた。
次の朝、空港のその航空会社を訪ね、届いていないか確認をしたあと、国内便に乗り換える段取りを考えた。ホテルのボーイの言うに、国際線と国内線のターミナルはかなり離れているらしい。タクシーを国際線で待たせておいて、用を済ませてから国内線まで送ってもらいなさいと忠告してくれた。その旨よくタクシーに指示しておきますとこれまた親切であった。この英語のできるボーイにたっぷりチップをはずんだのは当然である。タクシーの運転手がオーケーと頷きながら私にウインクした。
運転手を待たせたまま、次のフライトの時間を気にしながら航空会社のカウンターで、忘れた老眼鏡の探索結果を待った。朝が早いので職員が十分いないようだ。
電話で次々尋ねてくれるが、どうも空電話ばかりだ。結局見つからず、帰りの便のチェックイン時に再度申し出てくれと言う。これから仕事なのに心底弱った。
もし妻に言ったら、もうろくジジイ、それ見たことか、というに違いない。いまいましい。
急いで待たせてあるタクシーに飛び乗る。走り出したあと、運転手が何かべちゃくちゃ言っている。私は「国内線ターミナル」と覚えたばかりのスペイン語を繰り返した。
はっと気がつくと、運転手が違うではないか!違う車に乗ってしまったのだ。旅行用のバッグは前の車に置いたままだ!
それからが大変だった。「とまれ」とか「違う」とか「戻ってくれ」というスペイン語が出てこない。もともとそんな言葉は頭に入っていないのだ。車をどうにか止めると、怪訝な運転手をそのままに、駆けてもどり、たくさんのタクシーの中からやっとその一台を見つけ出す。運転手も心配そうな顔であった。危ないところだ。
かくして無事マドリッドからラコルニャに移動できたのである。ただし肝心な老眼鏡なしに。ほんとに仕事する気で来たのか?と自問自答する。
帰りに時間の余裕があり試してみたら、国内線と国際線のターミナル間は歩いて10分間程度の距離であったのは癪に障ることだった。


2000年02月04日(金)

私のスペイン一人旅がいかに大変であったかをもう少し書かせてほしい。
肝心な仕事の方は、大胆にも即断即決で契約書にサインをした。この責任は一人で負えばいいのだ、と言い聞かせつつ、ある中堅企業の日本総代理店となったのである。吉と出るか凶とでるか神のみぞ知る。お土産に小さな銀のクロスを買ってきた。日本の絵馬より効くかも知れない。
このビジネスの前途を象徴するがごとく、帰りのフライトが混乱した。
アムステルダムが強風と深い霧に包まれ、私のマドリッドからの便が2時間遅れた。乗り換えに1時間とちょっとしかない日本行き便は、無情にも私を待たずに飛び立った。この遅れた便でアムステルダムに着いた旅行者は、私を含めてパニック状態であった。各自それぞれ遅延証明書をもとに代替便を探さなければならない。隣に座っていた、フロリダから来たという老夫婦はアメリカ人らしく興奮して騒がしく、いちいち大声で相槌を求めるのにはまいった。代替便に乗り遅れないよう走る老夫が、遅れる老妻を怒鳴りつけるのを見ていると、レディファーストも建前だけだなとおおいに納得した。
待合室でそっけなく会釈もしなかったそれぞれ一人旅の若い女性旅行者ふたりが、さすがに心細くなったのか、寄ってきて一緒に行かせてくださいと言う。空港や航空会社はまったく不親切で案内やサイン類は一切ない。それにアムステルダムの空港がまたバカ広いのだ。
やっと見つけたデスクで、遅れたフライトの半券を示し遅延証明をもらう。そして7時間後の最終便に予約ができた。確認にまた出発ゲートのある乗り継ぎデスクに行けという。最終的にチケットがもらえたのは2時間前だ。みな機内に預けた荷物が無事この便に移動されるか心配らしく、何度も係員に確認している。
家に遅れる旨電話をしようとしたら、日本では深夜12時をまわっているので止めた。
何も知らない妻は、着くはずの時間からいくら経っても連絡のない私に何かの事故を想像したらしい。航空会社に電話しても、予定どおり飛行機はついていますといい、乗客の氏名はプライバシーの権利とかで教えられないと言ったという。
もしどうしてもというなら、警察に届ける手もありますとも言ったらしい。この航空会社には二度と乗らないと、後から聞いた私は憤慨した。
成田に着いて家に電話したら、いきなり妻に怒鳴られた。必要のないとき電話をよこして、必要なときに電話がないのだから、と。それからぶつぶつと......。
帰ってから、もう二度と一人旅はするな!ときつい妻のお叱りを改めた受けたのである。 私としてもしばらく!はしないつもりだ。


2000年02月07日(月)

朝日新聞にときおり著名人が父親のことを回顧する囲み記事がある。
人それぞれ独自の父親感ありで、そのリアリティは小説を超え、多様な人間解釈が深い感動をよぶ。人間とは単純な眼では捉えられない複雑怪奇なものだと読むたびに思う。子から見た父親像は、他人のそれとは違って遠慮のない直視ではあろうが、それも父親の一面しか見ていない内部史に過ぎなかろう。
子にとって父親という立場は母のそれより扱いにくいのではないだろうか。家庭の象徴はやはり母であり、日常の利害は母との交渉で成り立ち、その記憶が子供にインプットされ続ける。どうも父親の位置は子供の心の中心からかなり離れたところにポツンと置かれるような気がするのだ。母系家族と言われる所以だ。
最近、この囲み記事にあったある作家の断定した言葉に感銘を受けた。父親の死は少しも悲しくないというのだ。なぜなら、父親のものはすべて自身で受け継ぎ、自分の中に生きているからだというのだ。父の死には涙も出なかったという。現実的な喪失感が内的な存在感で相殺し得るということらしい。
彼のおよそ観念的な父親感に多少の誇張は感ずるも、日ごろ私の考えている自分の存在意義観と同根の思想があるようでおおいに共感した。私自身の死への恐怖は、自身の喪失への不安に根ざすものであろうが、自身の子への伝承が遺伝子の配賦によってなされるのは自明であるから、最近やや薄らいできたような気がしていたのだ。彼の言うように、自分が子供たちの中に生きているのだから、そんなに死を恐れることはないのではないか、と思いつつあったのだ。
心の平安を保つこうした日本的遺伝々承思想はまことに都合がいい。
先妻の子が二人もいた父に嫁ぎ、40代の始めに病に倒れた父を看病しつつ、私を育て、60歳で逝った母の幸薄かった人生を思うとき、機会がありながら尽くせなかった私の不人情を恥じる。そしていつも、あなたはいま私の中に生きているのだから一緒に楽しんで幸せのはず、と言い訳に使うのである。
自分の娘たちに私の生きるスペースはないのかも知れない。娘たちにとって私の存在は淡く、そして私は幸福な人生を送っているだろうから。


2000年02月08日(火)

友人に切手やコインの熱心な収集家がいる。以前は海外旅行するたび彼らのために小銭を残しておいた。版画や油絵、稀少本(Y本のこと)、ワッペンなどの収集に精を出す友もいる。彼らの熱意や根気には本当に感心する。しかし、いずれも金銭をモノの所有に置き換えたものだ。それゆえそのモノの現在価値を彼らはよく知っている。
私は比較的モノに対する所有欲はないようだ。金持ちほど吝嗇であり、貧乏人ほど散財する、のたとえ通り、自分の周りに残っているモノは少ない。散財するから貧乏人なのか、またこの逆かは不明ではあるが、いずれにしても自己所有のモノは少ない方がいいと思っている。持っていることがわずらしいのだ。何もない私の老後は、シンプルに年金内の生活をすれば良いのだし、将来、年金が減額されるとしても生活レベルを落とせば良いのだ。まさか飢え死にすることはあるまい。病を得ても身のほど知らぬ高額医療は望むべくもなく、町のヤブ医者に看取ってもらえば良い。かように私は本来無一物を地で行く楽天家この上なしなのである。
この対極にいる妻は、将来に対し、悲観思想を胸に、せっせとガラクタと小銭の蓄積に精を出すのである。夫は早く死ぬだろうという揺るぎ無い想定のもと、一人になったそのときは、優雅で文化的な余生をエンジョイしたいと考えているのだ。まことにもって結構な話で、夢想に遊ぶ夫と現実に生きる妻との接点のない生き方が妙に安定するのである。
むかしから日本の夫婦の典型はこうであった。
最近の若い夫婦は、この生存境界がなくなり、お互いの領域に踏み込むようになった。夫が日常の金銭の使途に口をはさむようになり、妻が職を持ち、それに生きがいを見出すようになったのである。共通の土俵があるのだから、お互いの思想がぶつかりあい、そして葛藤が生まれるのである。離婚が増えるのは当然の帰結であろう。
若い人の、相手の心に入らないという思いやり?と寡欲は、現代の夫婦和合の秘訣なのかも知れない。時代が変われば新しいルールが形成されるのだろう。
人間は時代に翻弄されるものなのである。
貯金できないなら、すこし経営の勉強したら、と妻の声あり。 沈黙。


2000年02月09日(水)

今年の春から勤めに出る娘に勤務地の内示があった。家族全員の希望に反し、通勤時間2時間の遠隔地と言われたようだ。仕事の内容は本人の望み通りであり、まったくの意地悪とも思えず複雑な思いだ。会社は非情であると恨むのは筋ちがいだと思うが、人事部長に文句のひとつも言ってやりたいと考えるのは、やはり親ばかの最たるものか。
家から通勤するか、一人住まいをするか、その夜我が家は久しぶりのディスカッションに興奮したのである。肝心の娘は一人暮しの気楽さを取りたいのは明白だ。
私と妻は、痛勤!の大変さと無駄を認める言質を与えつつ、食事や洗濯のわずらわしさを上げ連らね、同居を示唆するのである。娘もさるもの、増える雑事は好まぬと言いつつも、通勤で疲れてしまったらいい仕事ができないからね、などといままでから想像し得ぬことを口走る。果てぬ議論にみな疲労困憊し、庭から隣のどら猫がうるさいとばかり「ギャーゴ」と鳴いた声で終わりを告げた。
そういえば2時間通勤を3年もしたから仕事が嫌になったのね、と今アメリカに遊学する上の娘のことを思い出した妻。なかなか寝付かれないようだ。
翌朝、娘に食事を作りつつ、一年間だけでも家から通ったらどう?、とまだあきらめない妻。娘は聞こえないふりだ。
娘が嫁に行く前に、早々と妻と二人だけの生活になりそうな我が家。想像するだに寂しく、退屈な日々だ。ずっと先だと思っていたのに、予想外に早かった。
健康に自信が持てず、家庭回帰の方針に転換して以来、生活の比重を家に置いてきた私に、日々変容する娘はまさに興味の対象だった。
妻との会話のさなか、「本当はお父さんの方がさびしいのよね?」と軽口をたたいた娘に、「そうだ!」とまともに答えたら、妻と娘が驚いたように瞬間沈黙してしまった。そうだった。こういうとき、「おまえがいない方がどれだけせいせいするか!」と言わなければいけなかったのだ。ダサイ親父!
生々流転、本来無一物! 娘のいく会社の製品は死んでも使わない。


2000年02月10日(木)

酒を呑みつつ、「近頃暗い話ばかりで嫌になりますね」とT氏はつぶやいた。
T氏とは、本コンプロネットの技術責任者で、日夜コンピュータープログラムの行間に果てなき夢を追う若きウエブさすらいびと手島ちゃんである。
穴ぐらからたったいま出てきたような顔でちびちびとビールを呑む。ずっと昼も夜もない生活を続けているようだ。息抜きの新聞やテレビが、京都の少年殺人容疑者の自殺や、おぞましい少女9年監禁事件など気が滅入る事件ばかり伝える。
電脳空間引きこもりの彼ならずとも、もっといい話がないものかと思う。
京都の容疑者自殺について、なんとも言いようのない空漠感を私はもつ。自分の罪を自身の命で償ったのだが、事件の本質の解明の問題はさておき、こうした解決法の不条理にむなしさだけがつきまとう。この世の人間のすることすべて生を前提とした約束ごとである。死刑でさえも生の存続を断つというこちら側の論理だ。かように死は人間の容易に取り得る選択のひとつにはなっていず、神性の領域の話なのだ。だから当然のごとくクリスチャンは自死を許されない。
「彼にとって死はいくつかの選択の一つだったのですよ。他の選択と並ぶ軽いものですよ」、とT氏はこともなげに言う。「最後の最後に位置するのが死という重みはなく、最初からいくつかある選択のひとつだったのですよ。この死の軽さ僕たちの世代みなそうですよ。」と付け加えた。
過去、中国の重刑主義が国内の犯罪頻発を押さえてきた事実がある。レイプにも死刑が適用された。こうした死への恐怖をもとにした犯罪防止策は一理ある。
一度罪を犯したら、どうせ死刑になるのならとことん、と絶望的になる恐れもあるにはあるが。ただし最近の中国に犯罪が多発するのは重罰を恐れる以上に不満が膨張したものか、司法が十分機能していないからなのか、詳しくは知らない。
とにかく、彼の説に従えば、若い人にとって死が身近な選択のひとつとなり、死の重みがなくなったということだ。これは自分の命にとどまらず、他人のそれについても軽く考えるということになろう。
結論も出ぬこうした暗い話をたねに酒を呑む。親子ほど歳の離れた私とT氏には同質をもとにした共感はない。そのかわりドライで論理的会話の愉悦がある。
背を丸めてT氏は吹雪の中、プログラム言語が充満する蜘蛛の巣に帰って行った。
コンピューターゲームが若い世代の生命観を軽んずる方に変えたのでは?との自説は、有名私立大学を中退し、ずーとそのプログラムを作ってきた彼に、その日遠慮した。


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