■デイリーインプレッション:バックナンバー 2000/05/22~2000/05/31
2000年05月[ /22日 /23日 /24日 /25日 /26日 /29日 /30日 /31日 ]

2000年05月22日(月)

「みなさん、大統領の仕事より難しいのは、実は親業なんです!」
早朝、FEN放送の音楽を半分眠った頭で聞いているとき、この興味ある文句が突然流れた。クリントン大統領の声だ。

年を取った私は最近どうしても早く目が覚めてしまう。毎朝6時30分に床を離れることが妻との取り決め?となって久しい。それ以前に起きて家の中をウロチョロすることは、妻の安眠を妨げることになると言われている。したがって、早く目が開いたときは、イヤフォンラジオのスウィッチを入れ、まったく関心のない米国音楽を脳内に充満させて、茫洋の空間をさまようのである。

この大統領のメッセージは数十秒の短いもので、悩みを抱えた親の相談を受けるボランティア団体の紹介であった。困っている人はすぐ電話をください、と言う。

学校での銃によるおぞましい事件が頻発しているかの国の、切実な対策のひとつだろうと思う。銃規制が個人の自衛権との兼ね合いでままならぬため、窮余の一策かもしれない。教育制度や教育方針の見直しとか、文部省の通達など万事お上だよりのわが国とはやはり違うのかな、と眠い頭で考えた。

子供のしつけと教育は、親と学校との共同責任であろうが、その比率は各家庭によって違うだろう。学校にすべてお任せします、という人もいるだろうし、教師はティーチングマシーンと割り切る人もいる。その責任の分担比率より、実は共同責任そのものが軽くなってしまったことに問題があると指摘する人もいる。親も学校も責任の重さから逃れるため、それを子供本人の自己責任に転嫁しているというわけだ。自由主義とか個人尊重という美名の下にである。

子供のしつけに悩まない親はいない。決定版のマニュアルがあればベストセラーは間違いない。日常のこまごましたことまで口を出して、マナーを身に着けさせようと考える親もいる。黙って、懸命に働く背中を見せてやれば、子供は感じてくれるという高倉健タイプの親父もあろう。スキンシップが大事だと、友達のように遊びを共有する父親もまれではない。

親業とは実は父母の共同作業である。父親が毎晩飲んだくれていても、仕事のために自己犠牲をしている父親の真摯さを称賛するのが母親の努めだ。ゆめゆめけなすことによって夫をおとしめてはいけない。夫も妻に対しては同様だ。甘いものを食べて芸能番組ばかり見ている結果、見事な豚女になったパートナーを非難してはならない。鳶が鷹を生む例がないごとく、子は親の遺伝子で生きなければならないから、元を否定したら子は自分の行動理由に疑問を持つのは当然だ。

マナーやしつけが環境で身につくものならば、親業とは環境演出業だろう。カップルそれぞれ固有の幸せ環境を求め所帯を持つ。似ることはあってもどれひとつとて同じものはない。だから子供に個性が出るのである。環境は気をつけていないと時々侵食され破壊されることがある。そして不仲が最大の環境破壊であることは自明だ。

私の場合、夫の寛容と忍耐によって夫婦仲が保たれ、環境破壊にまで至らなかったわけであり、耐える父親を見て娘たちは女性のメリットを知ったのである。人生に優位なものを感じたひとは、生きる希望が出てくると言う説がある。(自説のような気がする!)要は、子育てが済んだ私は何でも言えるということです。


2000年05月23日(火)

短気は損気である、が分かるのは事後のことだからもう取り返しがつかない。
最近の若い人はこらえ性がなくなった,と言われる。むかつくと言葉や行動に直結する傾向があるらしい。私ごときは昔からショートテンパーの典型と言われてきたから、いまさら若い人がどうのと言われても、ピンとこないのである。

私のはタチの良い激昂?で、相手に暴力をふるったり、長幼の序や立場の上下を逸脱することは、辛うじて最後の一線でとどまっていた故、今日まで生きて来れた。これは、実は私が小心かつわがままで、甘えを受け入れてくれる相手にしか暴発させていなかったせいなのかも知れない。自分より強い相手には怖気つくのである。気弱な私は、手ごわい相手にはコワモテより卑屈な微笑だ。

私の上の娘は、似なければいいのにという私の願いを裏切って、すぐホットになる気質を伝承した。花火を着火する導火線が著しく短いのだ。ときおり、私の短気がいかに私の人生にマイナスに働いたか、反面教師として諭すのであるが、たいした反省もしていない私の心底を見ているのか、一向にそれを改善する気はない。気質は直らないが、押さえる努力をすることを知らない。

私の今までの仕事人生において、明らかに私の短気短慮で会社が実害を受けたことがひとつある。小さい事実を上げれば数え切れないマイナスはあったろうが、このひとつほど会社に損害をかけたことはなかった。

ある商品を3社共同で開発することになった。企画のユニークさが、ある公共企業体の目にとまり、3年に亘って巨額の補助金をもらえることになったのだ。たっぷり研究資金もあり、組んだ相手もよく、とんとん拍子で、1年ほどで企業化の見込みが立った。その後のマーケッティング費用まで負担してくれる面倒見のいい公的資金の補助制度だった。

2年目に入ろうとするとき、私は先方の2社といさかいを起こしたのだ。今考えれば何とでも修復できる他愛ないことだった。相手は私にバカ呼ばわりされたことがどうしても許せないという。ことの重大さに気づき、私は暴言を吐いたことを詫びたが、あとの祭りであった。第三者を立てて正式に許しを乞うたが、取りつくしまもなかった。よっぽどひどいことを言ったらしい。

それからが大変だった。レポートは一人でまとめなければならないし、3社共同が前提の資金補助はパーになるし。企業化も無理となったりで、散々だった。

それから3年ほどして、類似の商品が開発され、世に出てきた。裏に彼らがいたのか調べる気もしなかった。特許も私の方では出願を自粛していた。
商品開発を生きがいともする私に、この挫折はつらいものであった。同時に商品を失った会社は大変な損失であったのだ。

目的のために自分を犠牲にするのが仕事なら、私の愚かな行為は到底容認されない。職業人としてまさに失格である。以後、すこしはこらえることができるようになったと思うが、仲間は認めようようとはしない。

娘に、短気は直らぬが短慮はコントロール可能だ、と米国から帰国したら言おうと思っている。たぶん鼻でせせら笑うだろうが。


2000年05月24日(水)

妻の太極拳も本物になってきた。
暇つぶしに始めた気功と太極拳に、すこし真剣に取り組みはじめた妻だ。
盗み見た妻の動きは、まるでタコ踊りだが、本人はまじめそのものだ。私はむかし5年ほど修練に励んだ経験をもつ。妻の技量は一目で判る。

愚かにも妻は、右足を出すときどうして右手も出るの、と太極拳の動きのおかしさを師匠に尋ねたらしい。むかし人間はそう歩いていた、と返答されたと言う。
私が、江戸時代まで日本人も手と足は同じ側一緒に出して歩いていたのだ、と見たような講釈をしてあげたのである。

本棚の奥深くに隠れていた太極拳の教則本を探し出し、妻に自宅学習の足しにと与えた。目を通して、読んでもちっとも分からないわ、という妻に、私は模範を示すことになった。太極拳のもつ妖しげな動きを、むかし毛嫌いしていた妻からすれば信じられない従順さだ。今まで、およそ何事も私から学ぶという謙虚さがなかった。

ところが、頭で覚えているはずの太極拳が、最初の動きだけで後が続かないのである。すっかりカラダが忘れている。あせればあせるほど動きが分からなくなる。
妻はあきれたように、もういいわ!と言う。私が覚えてあなたに教えてあげるわ、と立場が逆転してしまった。間違いなくカラダが覚えているという確信が私にはあったのに。
本を返せ!、と教則本をあわてて取り上げ、復習する惨めな私だ。

妻は従来からの陶芸と、私のものだった!太極拳を老後の趣味とする予定らしい。
夫の領分へ侵食である。二人で仲良く、という趣向は私にはない。

むかしオープンカレッジで半年ほど習った油絵を、急に再開することにした。私の葬式に飾る遺影を描き上げ筆を絶って以来である。その遺影は相変わらず、人目に触れないよう二階の片隅に掲げられている。傑作であると少なくとも私は信じているから、その芸術観は恐ろしい。

妻に対抗して再開したとも言える油絵は、結局、2作目(カレッジで先生指導による1作目、遺影は3作目で最新作でもある)の重ね塗りに終わった。2年ぶりの勘を取り戻すつもりで塗り重ねてみたのであるが、最初のモチーフから大きくはずれ、田中麗奈が小川真由美の厚化粧に変わったみたいにグロテスクになっただけだ。油絵も一日で飽きて放り出す体たらくだ。油くさいと言う妻の文句がひとつ増えただけのいたずらだった。

すねて、部屋に寝転がって、宮部みゆきを読む私の横では、妻が、呼吸が大事なのよ、と言いながら気功やら太極拳やら怪しげな動きをするのである。

子供が去った二人だけの夜は長い。


2000年05月25日(木)

ウクレレがブームとなって久しい。
元ドリフターズの高木ブーがハワイアン音楽で復活し、時を同じくしてあの小さな楽器も人気が出たという。街なかで、ウクレレが入ったバッグを抱える若い娘をときおり見かけることもある昨今だ。

ウクレレは確かに手軽な楽器だと思う。何よりも小さいのがいい。4本しか弦がないのもいいし、コードだけの伴奏で鼻歌を楽しむには最高だ。もちろんこの道は深く、限りがないのは知っている。

私は学生時代にハワイアンバンドを結成し、いっぱしのミュージシャンを気取ったことがある。もちろん才能がないことは始めてすぐ分かったから、以後能書き派に転向した。音楽を奏でる腕はないが、解説、講釈にはうるさいというよくいるやからだ。それでも大学を卒業するまでプレーはしていた。

会社に入って福利厚生の一環とやらで、従業員のバンドづくりを指導したことがある。半年ほどでダンスパーティーをやれるほどになったのだからまあ成功だったと言えよう。私もメロディ楽器のスチールギターを弾いていた。

アンプやギターなど会社からお金を出してもらって楽器を買い集めたが、どうしても良いウクレレが欲しかった。そのバンドはハワイアン、歌謡曲、ラテン、ポピュラーとなんでもやるへんてこなもので、音が出る楽器なら何でもいいという今考えてもおかしな楽団であった。ウクレレは私のこだわりにすぎない。

学生時代の親友であるS君に、彼の大事にするマーチンのウクレレを貸してくれないかと頼んだ。彼は学生時代、小遣いにバイトの稼ぎを加えて、この米国製の名品をようやく手に入れたいきさつがある。彼の宝物のひとつだった。

大手ゼネコンでトンネルを掘っていた彼に、楽器をいじる暇などなく、大事にしてくれよな、の一言で私にあずけてくれた。彼の一人娘に、私の長女の名前をつけたほどの親友であったからだ。

それがまだ私の手元にある。もう借りっぱなしで30年近くにもなる。学校を出て15年ほどは時々のパーティー演奏で使っていた。その後は押入れにしまったままだ。返し忘れたというずうずうしい理由である。

彼が早々と世を去って5年になる。50歳そこそこの若さだった。脳出血で2週間意識不明ののちあっけなく逝った。一番の親友をかくも早く奪った運命の神を心底うらんだものだ。

最近、ときどきケースを開け彼のウクレレを取り出してみる。彼の思い出が爪弾きとともにやってくるのである。憂愁なしではウクレレは弾けない。
私が死ぬとき、これを一緒に持っていこうと考えている。そして今度こそ彼に返そうと思うのだ。そして二人でハワイアンを歌おうか!


2000年05月26日(金)

楽器シリーズ第二弾である。
ウクレレの話が出たらギターも言及しないわけにはいかない。
実はウクレレのほか、返しそこねたギターもあるのである。こんな話をすると、私のルーズさばかり強調するようで本意ではない。私の半生において、返し忘れたのはこれら楽器ばかりであることを念のため申し添えたい。もっとも、私に示していただいたご好意の数々については、何一つお返しはしていませんが。

ウクレレの友が一番の親友だとしたら、このギターの友が昔2番目だったろう。
やはり学生時代のハワイアンバンド仲間だ。ギターの友F君は高校も同じだった。
8クラスもあり、400人以上いた高校の同期生では、クラスが違えば言葉をかわすこともない。Fとは大学に入ってから知り合った。
バンドのメンバーが足りなくて、才能や嗜好などおかまいなしにFを仲間に引き入れたのは、私の熱気であったろう。女の子にもてるよ、の甘いささやきも功を奏したはずだ。生まれた初めて弾くギターは、Fにとって最初は苦痛以外なにものでもなかった。

Fと二人連日ギターの練習をした。ハワイアン音楽ではスチールギターがメロディーを弾き、サイドギターはただコードをリズムに合わせてはじくだけである。スムーズにコードが押さえられ移行できるようひたすら練習するのだ。指先が痛み、腕全体が上がらなくなる。それでも上達しないのが情けない。遅れて始めたFの方がたいへんだった。

どうにか指が動くようになり、併せてボーカルもやれるようになると一挙に楽しさがやってきた。たまのダンスパーティでの演奏はスター気分だ。二つのバンドがそれぞれ30分づつステージをもち、空いているときはダンスができる。アロハシャツをきたメンバーはとりわけ関心を引くのはもちろんだ。盛装した美人女子大生からのお誘いもあるのである。Fの初期の辛苦がかくして報われたのは、引き入れた私の功績でもあった。

出版会社への就職を希望していたFは、狭き門にはじかれ、田舎では名家の故もあって、故郷の公共団体に職を得る。現在その要職にあると聞くが、Fの結婚式以来お互い音信はない。私が職場でバンドを結成すると告げ、ギター貸与を願ったら、躊躇なく送ってきた。くれるとも貸すとも言わなかったが、こちらはまだ借りていると思っている。Fは卒業とともに音楽は捨てた、らしい。

大学を卒業するとき、二人で10年後に会社を起こそうと誓った。それまで大いに人生を勉強しようではないか、と決まっていた就職を正当化した。サラリーマンの隷属性は嫌悪すべきもので、男子一生の仕事にあらずと気炎を上げた。

人は社会に出て、会社や家庭に縛られ、否!なにより己の才能を知り夢がしぼむ。
まぎれもなくそのパターンに在った我々二人は、あの当時の夢が気恥ずかしい。
それが理由なのか分からぬが、とにかく現在疎遠だ。
しかし、ときどきFのギターを見るとき、我々の青春のひたむきさを想い、満ち足りるのである。


2000年05月29日(月)

米国人の友人D氏にも転機が来たようだ。
異国の中年が日本に住む違和感を、どこかに感じて付合ってきた。旅人への親愛感とでも言おうか、通り過ぎていくものへの愛惜だろうと考えている。

週末、彼といつものように東京近郊のJR駅で待ち合わせた。私の住むこの地方市は大学だけが多いことで有名だ。たっぷり税金を払ってくれる優良企業が少ないせいか、インフラの点で不満だらけの街だ。織物で栄えた時代の名残りが、さびれた商店街のあちこちに見受けられるだけの特徴のないところだ。

イタリアンレストランでビールをピッチャーで注文してから、彼はおもむろに口を開く。
「娘が結婚することになってね、9月中旬なんだ結婚式は」
「日本人なんだ、翻訳家というか海外規格を編集していてね、ナイスガイだよ」
彼女が以前付合っていた男を私はよく知っている。日本とフランスのハーフでホテルマンだった。結婚する、と彼女は周りに吹聴してはずだが。相手は彼と違うらしい。

30分ほど遅れて彼女が我々の仲間に入った。彼と打ち合わせ済みのことらしい。
彼女は最高の英会話講師だ。大学院で教育学を学んだうえ、日本語でも修士の資格を取った。日本語の読み書きも相当なもので、話すのは何の苦労もない。その上、スペイン、ポルトガル、イタリア、フランス、ドイツ語など計8ヶ国語をそれなりに話すから、まあ語学の天才と言ってもいいだろう。

彼女が5年ほど前、この地方のカルチャーセンターの英会話講師でやってきたとき、私は初めて会った。おばさん主体のほんとの初歩の会話のクラスで、楽しい集まりだった。

銀行上がりを生かして、日本の会計事務所と合弁で投資会社を経営し、余暇に語学教師派遣をしていた彼女の父D氏を紹介したのは、私の米語をもっと鍛えなければという親切心と、父親によき?友人を、という娘心だった。

語学教師派遣が飛躍的に伸びたという。この地方市だけで800人からの生徒がいるらしい。企業も結構大手に食い込んでいて順調だ。もちろんこの成功は、大学のマーケティング講師までしたこともある彼の経営手腕である。現在都心に、投資家の応接を主にした豪華なオフィスを持つ。

彼女の結婚が、親子二人の生活を変えることは明白だ。D氏は一人になる。彼は日本語がしゃべれない。事務所をこの地方市に持ってきて、生活圏をここにしたいと言う。ついては今後も、私の彼への友情を期待していいか?ということが主題だった。
彼の老後は、日本で8ヶ月、ベルギーで4ヶ月というのが理想らしい。ベルギーには彼が銀行にいた当時、赴任先で一番気に入った街があるのだそうだ。

家に帰って妻に、私も彼についてベルギーにでも行こうかな、と軽口を叩いたら、とたんに田舎はどうするの、ジジババどうするの?と怒鳴られたのである。
我が家のグローバリゼーションは永遠に来ないのである。


2000年05月30日(火)

楽器シリーズ第三弾で,そして最終弾である。
私のもっとも愛するスチールギターを取り上げることにしよう。

ウクレレ、ギターは人様のものを借用して自分のものにしてしまった後ろめたさがある。一方、スチールギターは私のものはあるのだが............。

ここで言うスチールギターは、ハワイアンやウエスタン音楽で使われる、真鍮のバーで弦を押さえ、爪ではじく西洋版の大正琴のことだ。ムード歌謡で一世を風靡したマヒナスターズの和田弘が弾く楽器でもある。我々にはバッキー白片か大橋節夫の方が通りはいいのだが。そして、もうこの楽器はほとんど聞かれなくなってしまった。このやわらかで引きずるような、すすり泣くような音色に、私は若いころからのめりこんできた。いまでもこの音色が好きでたまらない。

米国のフェンダーというブランドがスチールギターでは最高とされる。当時、お金がなかった私は、とうとうこの名品が買えなかった。国産のまったくの安物を手に入れたが、明らかにいい音が出ない。腕が悪いからなおさらであった。もっともこの商品のマーケットは小さかったから、買いたいと思っても国産品にいいモノがあるはずがなかった。

学生時代、ハワイアンバンドを結成したとき、肝心のスチールギターを弾いたのは一年後輩のI君である。彼は、当時国産品としては例外中の逸品といわれたコロンビアの高級品をすでに手に入れていた。それはプロの何人かが使っているほどで、確かにいい音色の名品だった。

バッキー白片に心酔していた彼は、調弦も奏法も、さらにアドリブまでも彼のマネしたのである。そして私は、そばでサイドギターを弾きながら彼の演奏法を盗み見て、そのすこしばかりを自分のものとしたのである。

会社に入ってバンドを結成したとき、どうしても彼のスチールギターが欲しかった。しかし、音楽を止めたはずの彼は、どうしてもそばに置いておきたいので売らないと言う。結局、パーティーや発表会があるときだけ借用したのである。面倒だと思いつつも、気に入った音色や慣れた扱いを捨てられず、最後まで彼の楽器を借用することになった。一番親しんで、愛した楽器が自分のものはでなく、手元にも置いておけなかったという悲しい話だ。

I君はいま全日空の機長である。学校を卒業して2年ほど建設コンサルに勤めたのち、大きく方向転回した。水産大学でやはりハワイアンバンドをやっていた彼のお兄さんは船乗りになっている。ふたりとも夢の島「ハワイ」に憧れて手っ取り早い職業!に就いたのかもしれない。ちなみに私が初めてハワイを訪れたのは、学校を卒業して20年目だ。南国のパラダイスまでは遠かったのである。

というわけで、私のスチールギターは今いずこ?なのである。しかし、今もときどき、私は夢の中であの頃の演奏をしている。白く輝くあのスチールギターが忘れずに会いに来てくれるのだ。それは昔の恋人に出会うようで、甘酸っぱく懐かしい。その音色はむせび泣くようで、若い日の感傷そのものである。

私は確かに、心の中にあのスチールギターを保管している。


2000年05月31日(水)

むかし竹の子族という怪しげな集団がいた。
原宿の竹下通りとかいう辺りにたむろしていたから、この名がついたと思うが確かではない。彼らが何の騒ぎを起こしていたのか、ボケてきた頭ではもう思い出せない。

このところ我が家では、竹の子が話題に出ない日はないのである。
猫の額よりまだ狭いわが家の庭に、竹の子がニョキニョキと顔を出すようになって3年ほどになる。家を建てたとき、一株の黒竹を隅に植えたのが始まりだった。

数年は遠慮勝ちに植えた近辺だけ顔を見せたものだが、知らない間に庭全体に根を張り巡らせた。この繁殖力のすさまじさはまさに驚異・脅威だ。せめてあんたにこれぐらいの生命力があれば、私の苦労は半減するわ!が、妻の私をけなす比喩集のひとつになったぐらいである。

昨年まで、出たら切る、のまさに私は首切り浅右衛門であり、そして仇敵は竹の子族であった。雨後の竹の子のたとえ通り、雨降ったあとの庭はまさに宿敵の勢ぞろい。夢にまで現れるのである。そのうち家の基礎を潜り、床下まで侵入し、やがては畳を持ち上げるに違いない、と恐れおののくに至った。我が家は竹の子族に占領される!と、田舎の父母にとうとう助けを求めたのである。

「食べればいいじゃない。小さくて細い竹の子って美味しいのよ!」と母はあっさりと、そしてあきれた顔で答えた。そう言えば竹の子は私の好物のひとつだった。太い竹の子だけが食べられるというわけでもない。

そんなわけで今年は、わが狭き庭が食材の採取所に変わった。夫婦交互で竹の子の顔出しを探すのである。そしてできるだけ根元から採れるようやさしく深く小さいスコップで掘るのである。小さいのや太目のやさまざまであるが、八百屋で売っているような大物はない。

最初に食べたとき、その美味に驚く。妻の料理法を超えて素材の勝利だ、とつくづく感じた。得をした気分にもなった。それから庭を探すのが日課となる。昨年までの敵を求める心境が、友に会う楽しみに変わったのだから、まさに発想の転換の大勝利だ!人間なんて気持ちの持ちようだ、の言にはつくづく賛成だ。そしてわが心の単純さにあきれてしまう。

しかし、このところ竹の子に関し、また気分がブルーだ。毎日小さいのが数本の収穫では、いちいち料理するのが面倒になり、また味も飽きてくる。そして竹の繁殖力はいつになっても衰えを見せない。終わりがないように見える。妻も私も竹の子採りに食傷気味となった。気分は浅右衛門にもどりつつあるのだ。

竹やぶの中のつぶれそうな掘建て小屋で、竹のようにやせこけた老夫婦が貧しく暮らしている夢をみた。正夢になるかも知れない。


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